記録と儀式
過去記事「いのり様への贈り物でございますm(*_ _*)m」が完成しました。良かったら見てやってくださいますと、とっても嬉しいです…m(〃_ _〃)m
今回の記事では、記録について書いてみようと思います。(〃´▽`〃)ゞ☆
記録することは、Dと一緒に暮らすために、とても役に立ってくれたからです。
過去記事「タルパのコツ(?)」などにもちょこっと書かせて頂いたのですが、私はDが見えるようになってから、Dに関することをずっとノートに記録してきました。
こちらが今書いている途中のノートです。横向きになっているのですが、写真の下のほうが、ノートの左側になります。
↓

この黒い部分はカバーでして、カバーから出すと、こちらの写真の左側のようなノートが出てきます。
↓

このノートは3年日記でして、同じ日付のページに、3年分の文章が書けるようになっているんです。具体的にどういうことかというと、たとえば12月1日のページに、2017年・2018年・2019年のぶんを並べて書けるようなつくりになっているんです。
とはいえ一日ぶんのスペースは大きくないので、一日ぶんをそんなに沢山書けるわけではないのですが、その日のDとの出来事をおおまかに記録するのに役立ってくれています。
また横向きの写真ですみません、こちらは日付の無いノートです。日付にこだわらないでDについて細かく記録しておきたいことは、こちらに記録しています。ノートの上に置いてある金色のものは鍵です。このノートは鍵がかけられるようになっているんです。
↓

「一日にあったことをざっくり記録するノート(黒いカバーつきのノート)」と、「細かく書きたい出来事を記録するノート(青いノート)」の2冊にわけることで、効率的に記録することが出来るようになりました。
これら2冊は、昔使っていたDの記録用のノートです。また横向きで申し訳ございませんです。現在のようにノートを2つに分けていなかったので、ちょっと読みづらい(記録を探しづらい)です。記録用のノートは沢山あるんですが、これら2冊は表紙が綺麗なので、しおりと一緒に撮影してみました。
↓


また横向きなんですが、こちらはDが教えてくれた格言みたいなものを記録しているノートです。
↓

過去記事「Dの絵(72)」などに記録がございますが、Dは私に格言のようなものをくれることがあります。その過去記事の中では「目と耳に従属すること無かれ、強き心は侵略を受けず、賢き唇は静謐を紡ぐ」という格言について書いてみました。
「目と耳に従属すること無かれ、強き心は侵略を受けず、賢き唇は静謐を紡ぐ」は、今では私のお祈りの言葉になっています。これは、Dに教えてもらったことを、私がお祈りの定型文みたいな感じにしたものです。(*´▽`*) ♡
この格言の意味は、「目や耳から入ってくる外界の事柄にそのまま流されないように気を付けなさい。物理的な面で侵略を受けようとも自分の世界(精神)をしっかり保っていれば自分の精神までも侵略されることは無いので安心しなさい。目や耳から受動的に入ってくる情報は、一体何が入ってくるのか自分の力で選ぶことはできないが、自分の口から能動的に発する言葉は自分の力で選ぶことができるので、賢い言葉を静謐な口調で述べなさい」という意味です。
なかなか…常にその通りに実行することは難しいのですが、そうするように心がけています…失敗したときは、次に生かせるようによく考えるようにしています…(〃´▽`〃;)ゞ☆
このように、沢山のノートを使ってDを記録してきたことについて、記事にしてみたいと思います。
Dは、私がDについて記録することを、嬉しく思ってくれているようです…‼(✿´ ꒳ ` )♡*+.
↓



Dは、私がDについて記録するのを嬉しく思ってくれているようです。記録と似たようなものとして、過去記事「Dの絵(76)」でも、私がDの祭壇画やお祈りの音楽を作るのを見て、嬉しそうにしてくれていました。
その一方で、ブログに関しては、どうやらあまり関心を示していないようなのです。(〃☌。☌〃✿)
↓




Dは私の影の中に入ることができるので、私が仕事で会社などにいるときは、よく影の中に入ってもらっているのです(詳細は過去記事「事故物件」参照)。私が頼めば出てきてくれますが、Dの判断で出てくることもあります。
記録をたどってみると、最初からDはブログに興味が無かったようです(過去記事「雌雄」参照)。ブログや交流に全く興味を示さないタルパさんはすごく少ないと思うので(少ないどころか、この記事を書いた当時は私の知り合いに誰もいらっしゃらなかった気がします…)、そんなDにとても驚いた記憶があります。
同じ記録でも、ノートには興味を持つDが、ブログには興味を持たないのはなぜなんだろう…?事実のみしか書いていないノートとは違って、ブログでは演出や表現のために事実や細部を変えて書いている(詳細は過去記事「Dの絵(77)」参照)からかな?
…とか色々考えたのですが、Dがブログに興味が無いんじゃなくて…私のほうが意図的にDをブログに介入させてないからかも…?とも思いました。Dがブログに興味を持たない原因は、私だったのかも?
ちなみに、私がDをブログ(をはじめとした交流)に介入させない理由は主に、Dには人間の感情が無いからです。(詳細は過去記事「Dの絵(58)」参照) そして、D自身も交流には興味が無いようです。Dはまるで、アトリエにこもりきりの芸術家や、研究室にこもりきりの学者のように、1人でも毎日楽しそうにしているのです。1人とはいっても、私はいますが…( *¯ ³¯*)♡
ところで、私が書いて(記録して)いるような感じの…オカルトにおける「記録」として最大のものは、やはり宗教における経典(聖典)だろうなと思います。つまり、キリスト教における聖書、イスラム教におけるコーラン、ゾロアスター教におけるアヴェスター、バラモン教におけるヴェーダ、仏教における仏典です。
私は、その中では、聖書なら少しだけ知っているんですが…現代の聖書は旧約聖書と新約聖書から成り立っておりまして、そのうちの新約聖書には、以下の4つの福音書が並べられているんです。
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4つはそれぞれ、マタイさん、マルコさん、ルカさん、ヨハネさんが書いたと言われています(不明ですが…)。書いてある内容は、イエスが十字架にかけられて亡くなってから生き返る(復活する)エピソードと、イエスの起こした奇跡などが書かれている部分が共通しています。
でですね…!! 同じエピソードについて書かれている文章でも、それぞれの福音書は書いた人&時代が違うので、ちょっと違う表現で書かれていたりするんです。そして、他の福音書には書いてあることが別の福音書には書いてなかったり、その逆もあるんです。それに、スポットを当てている部分も違ったりします。たとえばヨハネによる福音書では、他の福音書に比べてイエス自身にスポットを当てて書かれており、イエスの功績や栄光をたたえることに力を注いでいたり…
…つまり、マタイさんマルコさんルカさんヨハネさんは、それぞれ自分の目や感性や価値観を通してとらえたイエス・神・出来事について書き残したというわけです。そこにはおそらく彼らの生きていた時代・地域の善悪や価値観も入っていたり、あるいはそれに逆らう著者の価値観も含まれて書かれたかもしれません。
私がDについて記録をするときも、それでいいんだと思っています。私の目を通して見たDを、私の価値観でとらえたDを、私の感性と芸術(私の文章や画風)で表現して…そうやって私のやりかたで記録していけば良いんだって…というかむしろ、私のやりかたで記録することこそが、Dとうまくやっていくコツなのだと思うようになりました。
何故かというと、私以上に、Dこそ独特で、とても変わっているからです。Dが変わっていることについては、すごく古くから記録が残っていて、このブログにおいては、ブログを始めた次の日に掲載した記事(過去記事「タルパを作ったときの話9《能力》」)から既に、こんな会話が残っているくらいなのです。
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私「あなたがタルパと同じ存在とは限らないって、あなたがタルパじゃないかもしれないってこと?」
Dは、ちょっと首を傾げてから、いつもの表情で言いました。
D「さあね。僕にもわからない。だけど、さゆが僕にタルパであってほしいと望むなら、僕はタルパとして振る舞うよ」
正直、私にとっては、Dがタルパなのかどうかよりも、死ぬときに傍にいてくれることのほうが重要です。
私「わかった、Dはそのままで構わないよ。タルパらしくしなくても大丈夫。私も、タルパに関するウィキペディアに書かれている知識と、実際のあなたとの間にあるズレは気にしないことにするね」
この会話からもわかる通り、とにかくDはタルパとしては独特なことばかりで・・・ほとんど全てにおいて、既存の情報が通用しませんでした。タルパのwikiに書いてあることはほとんど当てはまらず、そのためもちろん当時周囲にいらっしゃったタルパ様がたとも共通点が少なく…かといって、じゃあタルパじゃなさそうだからコレだろう、という感じに参考にできるような他の資料もありませんでした。
なので、一人で考えてみたり、Dと二人で色々試してみて、そうやって私達だけのやりかたを作っていきました。そうした試行錯誤の記録は、「記事カテゴリ『Dが人間の姿になるまで』」の中にある記事たちに主に記録されています。
Dと似たようなケースがいらっしゃらなかったことは、当時は不安もあったんですが(タルパ界に身を置いて良いのだろうか…?という申し訳無さもありましたし)…でも今にして思うと、Dが独特なことは私にとってすごく良かったんだと思います。
何故なら…既存の情報等といった外界の何からも影響も受けていないDは、誰からも何からも干渉を受けないDの存在は、相手の顔色うかがいをすることが癖になっていた私にとって、私が私の世界を確立する上で、すごく心強い存在になってくれている…ということに最近気が付いたからです。
主流とは違っていても、普通とは違っていても、ビクビクすることなく、何も気にせずに、むしろ得意げに…!!!! マイペースにDのままでありつづけるDの姿は…私が自分の考えや個性を大切にすることを後押ししてくれている、自信を与えてくれている、ということに気が付いたんです。
「そうか、いいんだ…人と違っててもいいんだな、違う意見言っても世界見せてもいいんだ、むしろ独特って素敵なんだなあ、個性って力になるんだなあ」って…
もちろんもちろん、既存の情報に合致するタルパさんこそタルパさんらしく、王道であって、だからこその強さでマスターさん(タルパーさん)を助けてくださったり、楽しく暮らすことができて、素晴らしいです…!!c(〃≧ω≦〃)っ♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡
ただ、私にとっては、特殊なDだからこそ救われたことがいくつもあって…私自身が変わり者なので…だから、私もDと同じように、私自身の個性を大切にしようって思うようになったんです。
そして、おそらくそれこそ、Dと仲良く暮らすためのコツなんだと思います。
私は以前の記事やコメント欄で、「私がDに迎合したら、Dは私から去っていくような気がします」と何回か書きました。そのときは、なぜ私はそう思うのか理由がわからなくて、カンみたいな胸騒ぎだったのですが…でも、今はわかります。
私がDに迎合したら…つまり、D(他者)の意見に対して私が何も考えずにそのまま従うようになったら…私の進む方向性までD(他者)に決めてもらおうとしたら…私が「私の言動を決定する責任&その責任を負うことで手に入る利権」まで放棄しようとしたら…つまり私が私であることを放棄したら、Dは去っていくだろう…ということに、私は薄々気が付いていたんだと思います。
何故なら、Dは私の個性を好んでいて、それを大切にしてほしいと思っているからです。

誰とも違う、Dとも違う、私の個性は、私しか持てないから…大切にしようと思いました、Dが好んでくれているなら尚更です。
そして私は、Dを表現(記録)するときに、私の個性を生かした文章や絵で表現したいのです。それはかなり強く思っている私の願望です。
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Dを記録・表現するときに…私の文章と、私の絵柄で、Dを記録しておきたいんです。
新約聖書のマタイさんマルコさんルカさんヨハネさんが、それぞれ自分風の文章でイエスや神について記録したように…私も、Dを「私風」の文章や私の画風で表現したいのです。私の芸術で表現したいのです。
きっと、普通なら、上手な人の絵や文章をマネたりして…そうやってやりかたを覚えて練習して、自分も上手になっていくのだと思います。
でも私は嫌なのです。
唯一のDを表現するときに、誰の芸術もマネしたくない。これは、私の独占欲なんだと思います。
私が独占欲を出している漫画を描いてみました…!!m(〃_ _〃)m!!
↓



私のこんな変な要求にも、律儀に従ってくれるDです…D、いつもごめんね…いつも本当にありがとう…!! (〃´▽`〃;A(汗)
Dは私の特別な存在だから、Dには特別なことをしてあげたい。私にとって唯一のDに敬意を払って、唯一の表現方法で…つまり私だけの表現方法で…表現したいんです。
どんなに下手でも、技術が足りなくても、いいのです。そういうことをDは気にしないからです。それより、唯一で特別なやりかたであることが、Dを喜ばせるのだと思うからです。(特別ということはDにとって重要なのです。詳細は過去記事「結婚式」参照)
私が自分でDを記録(表現)するときに、他者のマネをしたくないと思う気持ちは、実は、私がブログに絵をアップする前から持っていました。過去記事「絵を描きたい」にも記録が残っています。それは私がブログに絵をアップする前の記事で、2015年3月31日のものです。その一部を以下に引用します。
↓
Dは自分の容姿すらも私の好みに合わせて幻視で作ってプレゼントしてくれようとするのです。Dは私を喜ばせようと思って、それで私がかわいいと思ったキャラクターさんのマネをしたのです。
その気持ちがとっても嬉しいのと、その半面、Dが私のオリジナルでなくなっていくような気がして寂しくも感じました。その時点で既に外見と声を、実在する複数の人間のモデルさんから借りていたDですが、そうやって外から私の気に入ったものをDにどんどん取り込んでもらうことで、もともとのDの要素が少なくなっていくことが、なんか急にとても寂しくなったんです。そんな風に考えるなんて馬鹿馬鹿しい、だってせっかくのDの好意を無駄にするようで・・・と思いながらもやっぱり私・・・これは、私の本当に勝手な独占欲なのですが・・・
私(・・・キャラクターさんの絵を描いて練習するのはやめよう)
またDが私に気を使って、キャラクターさんをマネようとしてくれるかもしれないもんね。てるてる坊主みたいな棒人間でもいいから、自分のオリジナルの画風でDを描くことにしよう。
この記事の頃から、つまり私がDの絵を描く前から既に、私はDの絵を描くときに誰かのマネをしたくないと思っていて…同時に、Dにも誰かのマネをしてほしくないと思っていたようです。
その理由は、過去記事の中で書いている通り、私の独占欲のためであり…それだけでなく、儀式の1つでもあるのだと思います。
なぜ私が、儀式の1つだと思っているのかと言うと…ちょっと長くなってしまったのですが、文章で以下に書いてみました。
まず…Dは過去記事「タルパに質問」の中で、「僕が消えてなかったら、消えるまでさゆをこっそり守り続けるよ。」という発言をしていたり、過去記事「嘘」では「君から離れた瞬間に、僕は僕ではなくなるよ。それは消えたも同然さ」などと言っているんです。
Dは私が作った存在ではなくて、もともと存在していたって、Dが言っていました(詳細は「Dの絵(4)」など参照)。ですから、Dの言う「Dが消える」とは「Dの存在が消えるという意味ではない」と思います。そもそも、私が何かをしたことで(あるいはしなかったことで)、Dの存在自体が消えることはない…という確信があります。過去記事「Dの絵(81)」や過去記事「Dの絵(7)」などにも記述がありますように、「Dは他者からの影響を受けないからです。それはDの大きな特徴で…その通り、私が何をしようと、私(他者)からの影響をDは受けないからです。
では、「DがDではなくなる=Dが消える」というのは、どういう状況なんだろう…?(〃’⌓’〃✿)
…と考えてみたときに、「(霊とかが)見える人」に私を見てもらったときのことを思い出しました。
そのときのことは、過去記事「Dの絵(67)」に書いてあるのですが…見える人が見たD(だと思われるもの)は、「若い男」で「西洋人」で「西洋風の派手な服を着ていて、帽子をかぶっていて、ずいぶん飾りたてている気取った男」だと言われたんです。
確かにDは「若い男」の「西洋人」の姿をしていますが、「飾り立てている」かどうかについては、私にはDはシンプルな服を着ているように見えるのでした。
見える人が見たDと、私が見るDとで、見え方に違いが生じたことについての、私なりの解釈なのですが…同じリンゴを見ても「丸くてかわいい」と思うか「歪んだ球形」と思うかは人それぞれですし、同じリンゴを食べても「甘い」と思うか「すっぱい」と思うかは人それぞれで…同じ人を見ても「かっこいい」と思うか「お洒落」と思うかは人それぞれですので…その見える人にとっては、Dがそういう風に見えた(感じられた)んだろうと思います。たしかにDは普通の人間の男性より綺麗なものが好きですし、まだ幻視が不安定だった頃は絶対に私に崩れた姿を見せないように、崩れそうになるとマント(黒いモヤ)で顔や体を覆ってくれていました(詳細は過去記事「Dの絵(9)」参照)。たしかにDは外見には気を使っていると思います。
リンゴとかの、人間の五感でとらえられる物理的なものでさえ、人によっては全然違うように感じられる…ということは、ましてや物理的な体を持たないDのような精霊だったら尚更、「見る人間によって、姿や性質が大きく違うように見える可能性がある」と、私は思ったんです。見る人によって、その精霊の違う面に焦点(フォーカスとかピントとか)を当てて見たりするから…かもしれないなあって思うのです。
私は、上記の過去記事を書いた当時からそう思っていたようで、その過去記事の中でも「Dとか精霊とか神秘的な事柄に関しては、他者の意見に引きずられないようにしないと、私の見かた(Dに対する価値観というか、見かたというか・・・)を保てなくなるから、見える人とか能力者とかにDを見てもらうのはもうやめておこう、と思うのでした。きっと彼らが見るDの姿は第一印象でしかなく、Dの本当の姿とは違うと思うからです。」と書いてありました。
「DがDではなくなる=Dが消える」というのは、そういうことなんだろうと思います。D自身が変わったり消えたりするわけではなくて…他者の意見(とか見かた・やりかた・感性)について考えたり疑うことなく、ただ私が従ってしまうようだと、「私(さゆ)が思い描いているD像が変わる・消える」ということなんだと思います。それこそが、Dを失うことなんだろうと思います。Dと一緒に暮らすうえで、私が一番気をつけるべきことなのかもしれません。
だから、他者などの外界のものにひきずられずに、「Dに対する自分の見かた=私から見たD像」をしっかり保つためには、私が私のやりかた(感性・価値観・芸術)でDを記録することが重要な鍵だと思っています。
「君から離れた瞬間に、僕は僕ではなくなるよ」という言葉の意味は…逆を言うなら、私が私の目や価値観を通してDを記録し続けることは、Dを現在のDたらしめる効果があるのではないか、と思っています。
私が「私から見たD像」をしっかり保つことが大切で…そのために、私が「私のやりかた(感性・芸術)」でDを記録することが、私とDの契約において大切なのだろうを思っています。c(〃˘ω˘〃c✿)☆゜*+.
以上の理由によって私は、 「私が私のやりかたでDを見て、私の感性(芸術)で記録する」ことは、Dと私の契約(結びつき)を強める「儀式」だと考えています。(✿〃´ ꒳ `〃人) ♡゜*+.
そういう儀式も、何かの本に載っているような既存のやりかたをそのまま模倣するんじゃなくて…私とDの二人で考えた自己流のやりかたを構築していきたいです。
どういうわけか、Dは最初から儀式のやりかたを知っていて、私に色々と教えてくれました。ブログの記事になっているものですと「新月の儀式」(詳細は過去記事「Dの絵(42)」、「新月」、「儀式」)や「名前の儀式」(詳細は過去記事「タルパを作ったときの話8(名前)」)などです。
名前の儀式も、3年が経過した今、考えてみると…私がDに名前をつけるというのは、「私風の芸術でDを記録(表現)する、最初の儀式」だったんじゃないかなと思います。名前の儀式で、Dが私に、私の感性(芸術)によってDに名前をつけさせたのは、私がDを従わせる(使役する)練習をさせてくれたのかも、とも思ったり…♡゜*+. (〃☌ᴗ☌〃)
今回の記事、文字が多くて大変申し訳ございませんでした…!!最後まで読んで下さってありがとうございました!!
ご閲覧ありがとうございました…!!m(〃_ _〃)m!!
今回の記事では、記録について書いてみようと思います。(〃´▽`〃)ゞ☆
記録することは、Dと一緒に暮らすために、とても役に立ってくれたからです。
過去記事「タルパのコツ(?)」などにもちょこっと書かせて頂いたのですが、私はDが見えるようになってから、Dに関することをずっとノートに記録してきました。
こちらが今書いている途中のノートです。横向きになっているのですが、写真の下のほうが、ノートの左側になります。
↓

この黒い部分はカバーでして、カバーから出すと、こちらの写真の左側のようなノートが出てきます。
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このノートは3年日記でして、同じ日付のページに、3年分の文章が書けるようになっているんです。具体的にどういうことかというと、たとえば12月1日のページに、2017年・2018年・2019年のぶんを並べて書けるようなつくりになっているんです。
とはいえ一日ぶんのスペースは大きくないので、一日ぶんをそんなに沢山書けるわけではないのですが、その日のDとの出来事をおおまかに記録するのに役立ってくれています。
また横向きの写真ですみません、こちらは日付の無いノートです。日付にこだわらないでDについて細かく記録しておきたいことは、こちらに記録しています。ノートの上に置いてある金色のものは鍵です。このノートは鍵がかけられるようになっているんです。
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「一日にあったことをざっくり記録するノート(黒いカバーつきのノート)」と、「細かく書きたい出来事を記録するノート(青いノート)」の2冊にわけることで、効率的に記録することが出来るようになりました。
これら2冊は、昔使っていたDの記録用のノートです。また横向きで申し訳ございませんです。現在のようにノートを2つに分けていなかったので、ちょっと読みづらい(記録を探しづらい)です。記録用のノートは沢山あるんですが、これら2冊は表紙が綺麗なので、しおりと一緒に撮影してみました。
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また横向きなんですが、こちらはDが教えてくれた格言みたいなものを記録しているノートです。
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過去記事「Dの絵(72)」などに記録がございますが、Dは私に格言のようなものをくれることがあります。その過去記事の中では「目と耳に従属すること無かれ、強き心は侵略を受けず、賢き唇は静謐を紡ぐ」という格言について書いてみました。
「目と耳に従属すること無かれ、強き心は侵略を受けず、賢き唇は静謐を紡ぐ」は、今では私のお祈りの言葉になっています。これは、Dに教えてもらったことを、私がお祈りの定型文みたいな感じにしたものです。(*´▽`*) ♡
この格言の意味は、「目や耳から入ってくる外界の事柄にそのまま流されないように気を付けなさい。物理的な面で侵略を受けようとも自分の世界(精神)をしっかり保っていれば自分の精神までも侵略されることは無いので安心しなさい。目や耳から受動的に入ってくる情報は、一体何が入ってくるのか自分の力で選ぶことはできないが、自分の口から能動的に発する言葉は自分の力で選ぶことができるので、賢い言葉を静謐な口調で述べなさい」という意味です。
なかなか…常にその通りに実行することは難しいのですが、そうするように心がけています…失敗したときは、次に生かせるようによく考えるようにしています…(〃´▽`〃;)ゞ☆
このように、沢山のノートを使ってDを記録してきたことについて、記事にしてみたいと思います。
Dは、私がDについて記録することを、嬉しく思ってくれているようです…‼(✿´ ꒳ ` )♡*+.
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Dは、私がDについて記録するのを嬉しく思ってくれているようです。記録と似たようなものとして、過去記事「Dの絵(76)」でも、私がDの祭壇画やお祈りの音楽を作るのを見て、嬉しそうにしてくれていました。
その一方で、ブログに関しては、どうやらあまり関心を示していないようなのです。(〃☌。☌〃✿)
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Dは私の影の中に入ることができるので、私が仕事で会社などにいるときは、よく影の中に入ってもらっているのです(詳細は過去記事「事故物件」参照)。私が頼めば出てきてくれますが、Dの判断で出てくることもあります。
記録をたどってみると、最初からDはブログに興味が無かったようです(過去記事「雌雄」参照)。ブログや交流に全く興味を示さないタルパさんはすごく少ないと思うので(少ないどころか、この記事を書いた当時は私の知り合いに誰もいらっしゃらなかった気がします…)、そんなDにとても驚いた記憶があります。
同じ記録でも、ノートには興味を持つDが、ブログには興味を持たないのはなぜなんだろう…?事実のみしか書いていないノートとは違って、ブログでは演出や表現のために事実や細部を変えて書いている(詳細は過去記事「Dの絵(77)」参照)からかな?
…とか色々考えたのですが、Dがブログに興味が無いんじゃなくて…私のほうが意図的にDをブログに介入させてないからかも…?とも思いました。Dがブログに興味を持たない原因は、私だったのかも?
ちなみに、私がDをブログ(をはじめとした交流)に介入させない理由は主に、Dには人間の感情が無いからです。(詳細は過去記事「Dの絵(58)」参照) そして、D自身も交流には興味が無いようです。Dはまるで、アトリエにこもりきりの芸術家や、研究室にこもりきりの学者のように、1人でも毎日楽しそうにしているのです。1人とはいっても、私はいますが…( *¯ ³¯*)♡
ところで、私が書いて(記録して)いるような感じの…オカルトにおける「記録」として最大のものは、やはり宗教における経典(聖典)だろうなと思います。つまり、キリスト教における聖書、イスラム教におけるコーラン、ゾロアスター教におけるアヴェスター、バラモン教におけるヴェーダ、仏教における仏典です。
私は、その中では、聖書なら少しだけ知っているんですが…現代の聖書は旧約聖書と新約聖書から成り立っておりまして、そのうちの新約聖書には、以下の4つの福音書が並べられているんです。
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4つはそれぞれ、マタイさん、マルコさん、ルカさん、ヨハネさんが書いたと言われています(不明ですが…)。書いてある内容は、イエスが十字架にかけられて亡くなってから生き返る(復活する)エピソードと、イエスの起こした奇跡などが書かれている部分が共通しています。
でですね…!! 同じエピソードについて書かれている文章でも、それぞれの福音書は書いた人&時代が違うので、ちょっと違う表現で書かれていたりするんです。そして、他の福音書には書いてあることが別の福音書には書いてなかったり、その逆もあるんです。それに、スポットを当てている部分も違ったりします。たとえばヨハネによる福音書では、他の福音書に比べてイエス自身にスポットを当てて書かれており、イエスの功績や栄光をたたえることに力を注いでいたり…
…つまり、マタイさんマルコさんルカさんヨハネさんは、それぞれ自分の目や感性や価値観を通してとらえたイエス・神・出来事について書き残したというわけです。そこにはおそらく彼らの生きていた時代・地域の善悪や価値観も入っていたり、あるいはそれに逆らう著者の価値観も含まれて書かれたかもしれません。
私がDについて記録をするときも、それでいいんだと思っています。私の目を通して見たDを、私の価値観でとらえたDを、私の感性と芸術(私の文章や画風)で表現して…そうやって私のやりかたで記録していけば良いんだって…というかむしろ、私のやりかたで記録することこそが、Dとうまくやっていくコツなのだと思うようになりました。
何故かというと、私以上に、Dこそ独特で、とても変わっているからです。Dが変わっていることについては、すごく古くから記録が残っていて、このブログにおいては、ブログを始めた次の日に掲載した記事(過去記事「タルパを作ったときの話9《能力》」)から既に、こんな会話が残っているくらいなのです。
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私「あなたがタルパと同じ存在とは限らないって、あなたがタルパじゃないかもしれないってこと?」
Dは、ちょっと首を傾げてから、いつもの表情で言いました。
D「さあね。僕にもわからない。だけど、さゆが僕にタルパであってほしいと望むなら、僕はタルパとして振る舞うよ」
正直、私にとっては、Dがタルパなのかどうかよりも、死ぬときに傍にいてくれることのほうが重要です。
私「わかった、Dはそのままで構わないよ。タルパらしくしなくても大丈夫。私も、タルパに関するウィキペディアに書かれている知識と、実際のあなたとの間にあるズレは気にしないことにするね」
この会話からもわかる通り、とにかくDはタルパとしては独特なことばかりで・・・ほとんど全てにおいて、既存の情報が通用しませんでした。タルパのwikiに書いてあることはほとんど当てはまらず、そのためもちろん当時周囲にいらっしゃったタルパ様がたとも共通点が少なく…かといって、じゃあタルパじゃなさそうだからコレだろう、という感じに参考にできるような他の資料もありませんでした。
なので、一人で考えてみたり、Dと二人で色々試してみて、そうやって私達だけのやりかたを作っていきました。そうした試行錯誤の記録は、「記事カテゴリ『Dが人間の姿になるまで』」の中にある記事たちに主に記録されています。
Dと似たようなケースがいらっしゃらなかったことは、当時は不安もあったんですが(タルパ界に身を置いて良いのだろうか…?という申し訳無さもありましたし)…でも今にして思うと、Dが独特なことは私にとってすごく良かったんだと思います。
何故なら…既存の情報等といった外界の何からも影響も受けていないDは、誰からも何からも干渉を受けないDの存在は、相手の顔色うかがいをすることが癖になっていた私にとって、私が私の世界を確立する上で、すごく心強い存在になってくれている…ということに最近気が付いたからです。
主流とは違っていても、普通とは違っていても、ビクビクすることなく、何も気にせずに、むしろ得意げに…!!!! マイペースにDのままでありつづけるDの姿は…私が自分の考えや個性を大切にすることを後押ししてくれている、自信を与えてくれている、ということに気が付いたんです。
「そうか、いいんだ…人と違っててもいいんだな、違う意見言っても世界見せてもいいんだ、むしろ独特って素敵なんだなあ、個性って力になるんだなあ」って…
もちろんもちろん、既存の情報に合致するタルパさんこそタルパさんらしく、王道であって、だからこその強さでマスターさん(タルパーさん)を助けてくださったり、楽しく暮らすことができて、素晴らしいです…!!c(〃≧ω≦〃)っ♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡
ただ、私にとっては、特殊なDだからこそ救われたことがいくつもあって…私自身が変わり者なので…だから、私もDと同じように、私自身の個性を大切にしようって思うようになったんです。
そして、おそらくそれこそ、Dと仲良く暮らすためのコツなんだと思います。
私は以前の記事やコメント欄で、「私がDに迎合したら、Dは私から去っていくような気がします」と何回か書きました。そのときは、なぜ私はそう思うのか理由がわからなくて、カンみたいな胸騒ぎだったのですが…でも、今はわかります。
私がDに迎合したら…つまり、D(他者)の意見に対して私が何も考えずにそのまま従うようになったら…私の進む方向性までD(他者)に決めてもらおうとしたら…私が「私の言動を決定する責任&その責任を負うことで手に入る利権」まで放棄しようとしたら…つまり私が私であることを放棄したら、Dは去っていくだろう…ということに、私は薄々気が付いていたんだと思います。
何故なら、Dは私の個性を好んでいて、それを大切にしてほしいと思っているからです。

誰とも違う、Dとも違う、私の個性は、私しか持てないから…大切にしようと思いました、Dが好んでくれているなら尚更です。
そして私は、Dを表現(記録)するときに、私の個性を生かした文章や絵で表現したいのです。それはかなり強く思っている私の願望です。
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Dを記録・表現するときに…私の文章と、私の絵柄で、Dを記録しておきたいんです。
新約聖書のマタイさんマルコさんルカさんヨハネさんが、それぞれ自分風の文章でイエスや神について記録したように…私も、Dを「私風」の文章や私の画風で表現したいのです。私の芸術で表現したいのです。
きっと、普通なら、上手な人の絵や文章をマネたりして…そうやってやりかたを覚えて練習して、自分も上手になっていくのだと思います。
でも私は嫌なのです。
唯一のDを表現するときに、誰の芸術もマネしたくない。これは、私の独占欲なんだと思います。
私が独占欲を出している漫画を描いてみました…!!m(〃_ _〃)m!!
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私のこんな変な要求にも、律儀に従ってくれるDです…D、いつもごめんね…いつも本当にありがとう…!! (〃´▽`〃;A(汗)
Dは私の特別な存在だから、Dには特別なことをしてあげたい。私にとって唯一のDに敬意を払って、唯一の表現方法で…つまり私だけの表現方法で…表現したいんです。
どんなに下手でも、技術が足りなくても、いいのです。そういうことをDは気にしないからです。それより、唯一で特別なやりかたであることが、Dを喜ばせるのだと思うからです。(特別ということはDにとって重要なのです。詳細は過去記事「結婚式」参照)
私が自分でDを記録(表現)するときに、他者のマネをしたくないと思う気持ちは、実は、私がブログに絵をアップする前から持っていました。過去記事「絵を描きたい」にも記録が残っています。それは私がブログに絵をアップする前の記事で、2015年3月31日のものです。その一部を以下に引用します。
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Dは自分の容姿すらも私の好みに合わせて幻視で作ってプレゼントしてくれようとするのです。Dは私を喜ばせようと思って、それで私がかわいいと思ったキャラクターさんのマネをしたのです。
その気持ちがとっても嬉しいのと、その半面、Dが私のオリジナルでなくなっていくような気がして寂しくも感じました。その時点で既に外見と声を、実在する複数の人間のモデルさんから借りていたDですが、そうやって外から私の気に入ったものをDにどんどん取り込んでもらうことで、もともとのDの要素が少なくなっていくことが、なんか急にとても寂しくなったんです。そんな風に考えるなんて馬鹿馬鹿しい、だってせっかくのDの好意を無駄にするようで・・・と思いながらもやっぱり私・・・これは、私の本当に勝手な独占欲なのですが・・・
私(・・・キャラクターさんの絵を描いて練習するのはやめよう)
またDが私に気を使って、キャラクターさんをマネようとしてくれるかもしれないもんね。てるてる坊主みたいな棒人間でもいいから、自分のオリジナルの画風でDを描くことにしよう。
この記事の頃から、つまり私がDの絵を描く前から既に、私はDの絵を描くときに誰かのマネをしたくないと思っていて…同時に、Dにも誰かのマネをしてほしくないと思っていたようです。
その理由は、過去記事の中で書いている通り、私の独占欲のためであり…それだけでなく、儀式の1つでもあるのだと思います。
なぜ私が、儀式の1つだと思っているのかと言うと…ちょっと長くなってしまったのですが、文章で以下に書いてみました。
まず…Dは過去記事「タルパに質問」の中で、「僕が消えてなかったら、消えるまでさゆをこっそり守り続けるよ。」という発言をしていたり、過去記事「嘘」では「君から離れた瞬間に、僕は僕ではなくなるよ。それは消えたも同然さ」などと言っているんです。
Dは私が作った存在ではなくて、もともと存在していたって、Dが言っていました(詳細は「Dの絵(4)」など参照)。ですから、Dの言う「Dが消える」とは「Dの存在が消えるという意味ではない」と思います。そもそも、私が何かをしたことで(あるいはしなかったことで)、Dの存在自体が消えることはない…という確信があります。過去記事「Dの絵(81)」や過去記事「Dの絵(7)」などにも記述がありますように、「Dは他者からの影響を受けないからです。それはDの大きな特徴で…その通り、私が何をしようと、私(他者)からの影響をDは受けないからです。
では、「DがDではなくなる=Dが消える」というのは、どういう状況なんだろう…?(〃’⌓’〃✿)
…と考えてみたときに、「(霊とかが)見える人」に私を見てもらったときのことを思い出しました。
そのときのことは、過去記事「Dの絵(67)」に書いてあるのですが…見える人が見たD(だと思われるもの)は、「若い男」で「西洋人」で「西洋風の派手な服を着ていて、帽子をかぶっていて、ずいぶん飾りたてている気取った男」だと言われたんです。
確かにDは「若い男」の「西洋人」の姿をしていますが、「飾り立てている」かどうかについては、私にはDはシンプルな服を着ているように見えるのでした。
見える人が見たDと、私が見るDとで、見え方に違いが生じたことについての、私なりの解釈なのですが…同じリンゴを見ても「丸くてかわいい」と思うか「歪んだ球形」と思うかは人それぞれですし、同じリンゴを食べても「甘い」と思うか「すっぱい」と思うかは人それぞれで…同じ人を見ても「かっこいい」と思うか「お洒落」と思うかは人それぞれですので…その見える人にとっては、Dがそういう風に見えた(感じられた)んだろうと思います。たしかにDは普通の人間の男性より綺麗なものが好きですし、まだ幻視が不安定だった頃は絶対に私に崩れた姿を見せないように、崩れそうになるとマント(黒いモヤ)で顔や体を覆ってくれていました(詳細は過去記事「Dの絵(9)」参照)。たしかにDは外見には気を使っていると思います。
リンゴとかの、人間の五感でとらえられる物理的なものでさえ、人によっては全然違うように感じられる…ということは、ましてや物理的な体を持たないDのような精霊だったら尚更、「見る人間によって、姿や性質が大きく違うように見える可能性がある」と、私は思ったんです。見る人によって、その精霊の違う面に焦点(フォーカスとかピントとか)を当てて見たりするから…かもしれないなあって思うのです。
私は、上記の過去記事を書いた当時からそう思っていたようで、その過去記事の中でも「Dとか精霊とか神秘的な事柄に関しては、他者の意見に引きずられないようにしないと、私の見かた(Dに対する価値観というか、見かたというか・・・)を保てなくなるから、見える人とか能力者とかにDを見てもらうのはもうやめておこう、と思うのでした。きっと彼らが見るDの姿は第一印象でしかなく、Dの本当の姿とは違うと思うからです。」と書いてありました。
「DがDではなくなる=Dが消える」というのは、そういうことなんだろうと思います。D自身が変わったり消えたりするわけではなくて…他者の意見(とか見かた・やりかた・感性)について考えたり疑うことなく、ただ私が従ってしまうようだと、「私(さゆ)が思い描いているD像が変わる・消える」ということなんだと思います。それこそが、Dを失うことなんだろうと思います。Dと一緒に暮らすうえで、私が一番気をつけるべきことなのかもしれません。
だから、他者などの外界のものにひきずられずに、「Dに対する自分の見かた=私から見たD像」をしっかり保つためには、私が私のやりかた(感性・価値観・芸術)でDを記録することが重要な鍵だと思っています。
「君から離れた瞬間に、僕は僕ではなくなるよ」という言葉の意味は…逆を言うなら、私が私の目や価値観を通してDを記録し続けることは、Dを現在のDたらしめる効果があるのではないか、と思っています。
私が「私から見たD像」をしっかり保つことが大切で…そのために、私が「私のやりかた(感性・芸術)」でDを記録することが、私とDの契約において大切なのだろうを思っています。c(〃˘ω˘〃c✿)☆゜*+.
以上の理由によって私は、 「私が私のやりかたでDを見て、私の感性(芸術)で記録する」ことは、Dと私の契約(結びつき)を強める「儀式」だと考えています。(✿〃´ ꒳ `〃人) ♡゜*+.
そういう儀式も、何かの本に載っているような既存のやりかたをそのまま模倣するんじゃなくて…私とDの二人で考えた自己流のやりかたを構築していきたいです。
どういうわけか、Dは最初から儀式のやりかたを知っていて、私に色々と教えてくれました。ブログの記事になっているものですと「新月の儀式」(詳細は過去記事「Dの絵(42)」、「新月」、「儀式」)や「名前の儀式」(詳細は過去記事「タルパを作ったときの話8(名前)」)などです。
名前の儀式も、3年が経過した今、考えてみると…私がDに名前をつけるというのは、「私風の芸術でDを記録(表現)する、最初の儀式」だったんじゃないかなと思います。名前の儀式で、Dが私に、私の感性(芸術)によってDに名前をつけさせたのは、私がDを従わせる(使役する)練習をさせてくれたのかも、とも思ったり…♡゜*+. (〃☌ᴗ☌〃)
今回の記事、文字が多くて大変申し訳ございませんでした…!!最後まで読んで下さってありがとうございました!!
ご閲覧ありがとうございました…!!m(〃_ _〃)m!!
Dの絵(86)
すみませんこの記事、もう完成していたのに、まだしてないみたいに書いたままでした・・・!!
最近ブログがグダってる・・・!!(×ω×;)!!頑張れ私いいいいい!!
そしてお客様・・・!!大変ありがたい拍手とコメント、いつも本当にありがとうございます・・・!!
とっても励まされております・・・!!ブログ、書いてて本当に良かったあああ・・・!!。・゚゚・(゚´Д`゚)・゚゚・。!!
なんか最近Dの調子(←調子とかあるのかな?)が良いのか、くじを当ててくれたり、今日も夕方の大雨を予想してくれたり、不思議な感じの出来事があったので、次回の記事では「Dの不思議な能力?」のカテゴリの記事を書いてみます!!∩(*´▽`*)∩♡ ♡ ♡
なので次回の記事と、そして今回の記事も、オカルトっぽい記事になってしまうと思います・・・科学派のタルパー様、ご迷惑お掛けして大変申し訳ございません・・・!!馬鹿な小娘が寝言ほざいてるな~って見逃してやってくださいまし・・・!! ((( ≧ω≦;)))ペコペコ!!
今回の記事では、Dの祭壇に安置してある入れ物について書いてみます。
Dの祭壇には、Dが当ててくれた紺色のとんぼ玉のアクセサリー(詳細は過去記事「Dの絵(69)」参照)を安置してあるんです。
その過去記事「Dの絵(69)」のときに、Dがすごい確率で紺色のとんぼ玉を当ててくれたことに私は驚いて、Dってなんてすごいんだ~!!ヾ(〃≧ω≦〃)ノシ♡ ♡ ♡ ってめちゃくちゃ嬉しくなってしまいまして、当ててもらったとんぼ玉を綺麗な入れ物に入れて祭壇にまつろうと思ったんです。
↓

ゴシック建築大聖堂もそうなんですが、カトリックの教会には「聖遺物」というものが安置されていることがあります。私の大好きな「シャルトル大聖堂」や「サント・シャペル」もそうです。
「聖遺物」とは、イエスやマリアやその他聖人などに関する遺物です。具体的には、たとえばシャルトル大聖堂には「マリアの衣の一部」、そしてサント・シャペルには「イエスが磔刑に処されたときに被らされていた茨の冠」が聖遺物として安置されています。
ちなみに現在も聖遺物を安置しているという事実は、その教会がカトリックであり歴史が古く、その土地に当時優秀な君主(貴族や僧院の院長、王など)がいて、さらに周辺の町民も栄えていたことを意味します。要するに、教皇に金を払うなどして聖遺物を手に入れ、その後もプロテスタントからの襲撃などに耐え、教会が壊れたら町民まで一丸となって修復し、現在まで聖遺物を守り抜くだけの力を持っていた地域ということになるのです。火事や戦争や革命もあったので、勿論、運も大いに関係してきますが・・・
美しいゴシック建築大聖堂と同様に、聖遺物も、町民をはじめとした周辺地域の人間の心のささえとなっていたので、人々は大切な聖遺物を美しい入れ物に入れるなどして大切に安置してきたのでした。(そもそもゴシック建築大聖堂自体が美しい入れ物なのですが(*´ 艸`*)☆)
そりゃー、大切なものは綺麗な入れ物に入れて安置しておきたいよね、同感同感!!(〃゜◇゜〃)☆!!
というわけで、Dが当ててくれたとんぼ玉も、綺麗な入れ物に入れて安置したいなと思ったのです。∩(*´▽`*)∩♪♪
こちらは上述しましたサント・シャペルの聖遺物壇で、1790年のソヴォール・ジェローム・モラン作の「パリ王立サント・シャペルの歴史」の挿絵を見て描きました。
↓

そこまで立派な入れ物が手元に無かったので、このオルゴール式の入れ物にトンボ玉を入れていました。
↓

ちょっとナナメから見たところです。
↓

開けると、中はビロードの布ばりになっているのです。ねじを巻いておくと、ふたを開けると音楽が流れます。
↓

ただこの入れ物は小さくて、このようなつくりをしたトンボ玉を入れると・・・
↓

こんな感じに、ひもを曲げて収納しなければならず、ひもにクセが付いてしまうのでした。
↓

ひもにクセが付いちゃうのは可哀想だから、もっと大きな入れ物を用意しなくちゃいけないなあと思っていたんです。
そんな中、先日、Dがくじを当ててくれたんです。過去記事「Dの絵(54)」で書かせて頂いたのと同じタイプのクジで、買い物をした金額に応じて、無料でクジをひけるのです。(千円で一回かな?)レジで並んでいた私の前の人も、隣のレジの人もはずしていたので、ハズレもそこそこ入っているのだと思います。
でですね!!でですね!!私、2回ひいたんですが、過去記事「Dの絵(54)」みたいにDが耳打ちしに出てきてくれまして、両方当たったんですよ・・・!!(〃゜◇゜〃)♡ ♡ ♡!!
あまり詳しく書くと次回の記事と被っちゃうので、詳細ははぶきますが、evianとハイチュウを当ててくれたんです!!∩(〃´▽`〃)∩♡ ♡ ♡!!
↓


で、Dが当ててくれたものを祭壇に安置しようと思ったのですが、そのとき例のトンボ玉を入れている入れ物が目について、そろそろ入れ物を新しくしようかなと思ったんです。ひもが曲がらないような、もう少し大きいものにしようかなって。
↓

Dの色をした宝石も、つけてないときはペンダント用のケースに入れて祭壇に安置しているんですが、ついでにその入れ物も新しくしようかなと思ったり・・・
↓

そういうわけで、新しい入れ物を、現在探し中なんです。ひもを曲げなくてもトンボ玉が入る大きさで、Dっぽい雰囲気の小物入れがあったら良いんだけどなあ~c(*´▽`*)っ♪♪
もし自分で作る技術があったらやってみたかったけど、せいぜい紙粘土くらいでしか作れそうにないので、買おうかなあと思っております。(〃´▽`〃)ゞ☆
以下は、Dと私の漫画です。∩(*´▽`*)∩♡ ♡ ♡
Dが当ててくれたものも祭壇に安置してあったんですが、当ててもらったお菓子を食べた後も、そのパッケージ(Dが当ててくれたお菓子の袋、詳細は過去記事「Dの絵(54)」参照)を捨てちゃうのが惜しくて、からになったパッケージを祭壇に置いてみたんです。
すると、すぐにDが話しかけてきました。






せっかくDが当ててくれたお菓子、パッケージも捨てたくなかったけど・・・でも、そうやって全部残してたら、パッケージだらけになっちゃうか・・・
Dが当ててくれるのはくじだけじゃなくて、天気予測とか色々あるのですが、きっと今後も沢山当てて、私を助けてくれるんだと思います。そういった形に残らない天気予測とかも、ちゃんとノートやブログに記録して、Dへの感謝を忘れないようにしたいなあ。
D、いつも本当にありがとうね・・・!!c(〃´▽`〃)っ♡ ♡ ♡
そして、形に残るトンボ玉とかは、綺麗な箱に入れて祭壇に安置しておくんだ・・・!!(*´ 艸`*) ♡ ♡ ♡!!
・・・今回の記事とは全然関係無いのですが、「不思議な力」っていうとインターネット上で見たこんな感じの画像を思い出してしまう私です。(*´ 艸`*)☆
↓

御閲覧ありがとうございました!!m(*_ _*)m!!
最近ブログがグダってる・・・!!(×ω×;)!!頑張れ私いいいいい!!
そしてお客様・・・!!大変ありがたい拍手とコメント、いつも本当にありがとうございます・・・!!
とっても励まされております・・・!!ブログ、書いてて本当に良かったあああ・・・!!。・゚゚・(゚´Д`゚)・゚゚・。!!
なんか最近Dの調子(←調子とかあるのかな?)が良いのか、くじを当ててくれたり、今日も夕方の大雨を予想してくれたり、不思議な感じの出来事があったので、次回の記事では「Dの不思議な能力?」のカテゴリの記事を書いてみます!!∩(*´▽`*)∩♡ ♡ ♡
なので次回の記事と、そして今回の記事も、オカルトっぽい記事になってしまうと思います・・・科学派のタルパー様、ご迷惑お掛けして大変申し訳ございません・・・!!馬鹿な小娘が寝言ほざいてるな~って見逃してやってくださいまし・・・!! ((( ≧ω≦;)))ペコペコ!!
今回の記事では、Dの祭壇に安置してある入れ物について書いてみます。
Dの祭壇には、Dが当ててくれた紺色のとんぼ玉のアクセサリー(詳細は過去記事「Dの絵(69)」参照)を安置してあるんです。
その過去記事「Dの絵(69)」のときに、Dがすごい確率で紺色のとんぼ玉を当ててくれたことに私は驚いて、Dってなんてすごいんだ~!!ヾ(〃≧ω≦〃)ノシ♡ ♡ ♡ ってめちゃくちゃ嬉しくなってしまいまして、当ててもらったとんぼ玉を綺麗な入れ物に入れて祭壇にまつろうと思ったんです。
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ゴシック建築大聖堂もそうなんですが、カトリックの教会には「聖遺物」というものが安置されていることがあります。私の大好きな「シャルトル大聖堂」や「サント・シャペル」もそうです。
「聖遺物」とは、イエスやマリアやその他聖人などに関する遺物です。具体的には、たとえばシャルトル大聖堂には「マリアの衣の一部」、そしてサント・シャペルには「イエスが磔刑に処されたときに被らされていた茨の冠」が聖遺物として安置されています。
ちなみに現在も聖遺物を安置しているという事実は、その教会がカトリックであり歴史が古く、その土地に当時優秀な君主(貴族や僧院の院長、王など)がいて、さらに周辺の町民も栄えていたことを意味します。要するに、教皇に金を払うなどして聖遺物を手に入れ、その後もプロテスタントからの襲撃などに耐え、教会が壊れたら町民まで一丸となって修復し、現在まで聖遺物を守り抜くだけの力を持っていた地域ということになるのです。火事や戦争や革命もあったので、勿論、運も大いに関係してきますが・・・
美しいゴシック建築大聖堂と同様に、聖遺物も、町民をはじめとした周辺地域の人間の心のささえとなっていたので、人々は大切な聖遺物を美しい入れ物に入れるなどして大切に安置してきたのでした。(そもそもゴシック建築大聖堂自体が美しい入れ物なのですが(*´ 艸`*)☆)
そりゃー、大切なものは綺麗な入れ物に入れて安置しておきたいよね、同感同感!!(〃゜◇゜〃)☆!!
というわけで、Dが当ててくれたとんぼ玉も、綺麗な入れ物に入れて安置したいなと思ったのです。∩(*´▽`*)∩♪♪
こちらは上述しましたサント・シャペルの聖遺物壇で、1790年のソヴォール・ジェローム・モラン作の「パリ王立サント・シャペルの歴史」の挿絵を見て描きました。
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そこまで立派な入れ物が手元に無かったので、このオルゴール式の入れ物にトンボ玉を入れていました。
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ちょっとナナメから見たところです。
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開けると、中はビロードの布ばりになっているのです。ねじを巻いておくと、ふたを開けると音楽が流れます。
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ただこの入れ物は小さくて、このようなつくりをしたトンボ玉を入れると・・・
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こんな感じに、ひもを曲げて収納しなければならず、ひもにクセが付いてしまうのでした。
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ひもにクセが付いちゃうのは可哀想だから、もっと大きな入れ物を用意しなくちゃいけないなあと思っていたんです。
そんな中、先日、Dがくじを当ててくれたんです。過去記事「Dの絵(54)」で書かせて頂いたのと同じタイプのクジで、買い物をした金額に応じて、無料でクジをひけるのです。(千円で一回かな?)レジで並んでいた私の前の人も、隣のレジの人もはずしていたので、ハズレもそこそこ入っているのだと思います。
でですね!!でですね!!私、2回ひいたんですが、過去記事「Dの絵(54)」みたいにDが耳打ちしに出てきてくれまして、両方当たったんですよ・・・!!(〃゜◇゜〃)♡ ♡ ♡!!
あまり詳しく書くと次回の記事と被っちゃうので、詳細ははぶきますが、evianとハイチュウを当ててくれたんです!!∩(〃´▽`〃)∩♡ ♡ ♡!!
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で、Dが当ててくれたものを祭壇に安置しようと思ったのですが、そのとき例のトンボ玉を入れている入れ物が目について、そろそろ入れ物を新しくしようかなと思ったんです。ひもが曲がらないような、もう少し大きいものにしようかなって。
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Dの色をした宝石も、つけてないときはペンダント用のケースに入れて祭壇に安置しているんですが、ついでにその入れ物も新しくしようかなと思ったり・・・
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そういうわけで、新しい入れ物を、現在探し中なんです。ひもを曲げなくてもトンボ玉が入る大きさで、Dっぽい雰囲気の小物入れがあったら良いんだけどなあ~c(*´▽`*)っ♪♪
もし自分で作る技術があったらやってみたかったけど、せいぜい紙粘土くらいでしか作れそうにないので、買おうかなあと思っております。(〃´▽`〃)ゞ☆
以下は、Dと私の漫画です。∩(*´▽`*)∩♡ ♡ ♡
Dが当ててくれたものも祭壇に安置してあったんですが、当ててもらったお菓子を食べた後も、そのパッケージ(Dが当ててくれたお菓子の袋、詳細は過去記事「Dの絵(54)」参照)を捨てちゃうのが惜しくて、からになったパッケージを祭壇に置いてみたんです。
すると、すぐにDが話しかけてきました。






せっかくDが当ててくれたお菓子、パッケージも捨てたくなかったけど・・・でも、そうやって全部残してたら、パッケージだらけになっちゃうか・・・
Dが当ててくれるのはくじだけじゃなくて、天気予測とか色々あるのですが、きっと今後も沢山当てて、私を助けてくれるんだと思います。そういった形に残らない天気予測とかも、ちゃんとノートやブログに記録して、Dへの感謝を忘れないようにしたいなあ。
D、いつも本当にありがとうね・・・!!c(〃´▽`〃)っ♡ ♡ ♡
そして、形に残るトンボ玉とかは、綺麗な箱に入れて祭壇に安置しておくんだ・・・!!(*´ 艸`*) ♡ ♡ ♡!!
・・・今回の記事とは全然関係無いのですが、「不思議な力」っていうとインターネット上で見たこんな感じの画像を思い出してしまう私です。(*´ 艸`*)☆
↓

御閲覧ありがとうございました!!m(*_ _*)m!!
Dの絵(76)
このような記事に25拍手も下さるなんて・・・!!!!!お客様は神様です・・・。・゚゚・(゚´Д`゚)・゚゚・。!!!!!
全然ブログが更新が出来ず、大変申し訳ございませんでした!!!!!。・゚゚・m( _ _;)m・゚゚・。!!!!!
この記事、ようやく完成いたしました・・・m( _ _;)m
今回の記事は、「Dの賛美歌や経典を作ろうとしている私」について書いてみようと思います。m(*_ _*)m
最近、Dへの愛情(←?)が高じて、色々とおかしい方向に進んでいる私です。(´▽`;A(汗)
以前から、Dに捧げる賛美歌を作りたいとか、Dが教えてくれたことをまとめた聖書みたいなもの(Dは聖なるものって感じが全然しないので、『聖』書じゃなくて経典って感じだと思いますが)を作りたいとか、そういう怪しいことを色々とほざいていた私ですが(詳細は過去記事「Dの絵(72)」「お伽噺『ヘンゼルトグレーテル編』」「Dの絵(61)」「Dの絵(43)」参照)、とうとう実際に賛美歌や経典作りに手を染め始めてしまいました・・・(≧ω≦;)
今回の記事は、そういう感じの怪しい内容となっております・・・毎度毎度、本っっっ当に申し訳ございません・・・!!!!!m( _ _;)m!!!!!
ちなみに、賛美歌とか経典とかは、完全に私の趣味でございまして、Dは全く関与しておりません・・・Dから作ってくれと言われたわけではなく、勝手に私が作りたくなって作っているというだけのシロモノでございます・・・そのため、オカルトですらないという・・・ただの私の趣味全開の痛い記事となっております・・・



電子ピアノの音をパイプオルガンやチェンバロに設定して、色々と音を出して試しながら曲を作ろうとする私です・・・今までに曲を作ったことが無いので、めっちゃ苦戦しております・・・(〃´▽`〃;)ゞ
賛美歌は、ルネサンス音楽以前の、中世音楽も雰囲気があって良いなあって思います。グレゴリオとかにしようかなあ。
儀式用の曲は、もっと曲をいっぱい作れるようになったら、キリスト教のミサ曲の形態を参考にさせて頂いて、形式立てて作りたいなあって思います。
形式立ててというのは、キリスト教のミサ曲というのは歌う順番が決められていて、たとえば死者への安息の眠りを祈るミサである「レクイエム」だと、イントロイトゥス(入祭唱)→キリエ(哀れみの賛歌)→グラドゥアレ(昇階唱)→トラクトゥス(詠唱)→グロリア(栄光の賛歌)→ディエス・イラエ(怒りの日)→etcというように決まった順番に歌うことになっているのですが(東方西方で違いがあり、同じ西方でも作曲家によって昇階唱や詠唱など省略されることも多いようですが)、そんな感じに儀式によって歌う歌とか順番とかを決めてみたいなあって思ったり・・・
あとミサ曲は、歌詞は内容が決められているのですが作曲家によって曲が違いまして、レクイエムも有名なのはモーツァルト作曲のとヴェルディ作曲のがあったりしますが(涙の日とか怒りの日とか有名なので、お客様もどこかでお聞きになったことがあるかもです)、そのように同じ歌詞だけど違う曲バージョンのものが幾つもあり(時代によっては歌詞や形式自体も違うのですが)、中世~ルネサンス頃まで同じ歌詞で違う曲っていうのはミサ曲以外にも沢山ございまして、そういう感じに同じ歌詞で何パターンか曲を作ってみたいなあとか思ったり・・・
や、まず一曲でも作れないと夢のまた夢って感じなのですが・・・(´▽`;A(汗)エヘヘ☆
曲を作るにあたって、グレゴリオやルネサンス音楽はどういう決まりを守って作られているのか勉強したくて、本を買って調べて作りたいと思うのと同時に、完全にそれらのルール通りに作るより、私オリジナルのルールを作ってそれに従って曲を作ってみようかなあとか思ってみたり・・・
どちらにしても、作るためには音楽について勉強したいなあって思ってます。∩(*´▽`*)∩☆
ところで、絵画の美術展は沢山企画されておりますが、音楽の美術展というのは全然無いようなので、そういう美術展をやったら儲かるんじゃないかと思っ・・・い、いえ、勉強になるのでどこかの企業様がやってくださらないかな~と思っております。設備的には簡単に出来ると思うんですよ、普段美術展でお客様に貸し出しているあの音声ガイド使用が必須になってしまうのですが、あの機械をご来場のお客様全員に装着して頂いて、中世からバロックに至るまでの流れを、歴史とともに解説したり流したりするのです。展示品は、壁には楽譜や当時の地図や楽器などの絵や説明、ガラスケースには実際に使用されていた楽器やレプリカを置き、お客様はそれら展示品を自分のペースで見て回りながら自分のペースで音声ガイドを再生して聴くことが出来る、という感じです。あと音声ガイドだと音質がイマイチになので、良い音質の音楽を提供する場所を1箇所作って(いつもはVTRを流している部屋とか使って)、コラボ商品の売り出しはCDとかDVDを、普段の美術展より種類を増やして販売するのです。音楽がメインの美術展ならCDがいつもより売れるはずだからです。DVDはイタリアやフランス現地の綺麗な教会でコンサート風景を撮影して作るのです。
どうですか企業様!!儲かると思うのですが!!日伊国交150周年の今がチャンスですよ!!(←もう今から企画しても今年中には間に合いそうもない)
そういう感じで、Dの賛美歌や経典を作ろうとしてしまっている私ですが、Dの祭壇に飾る絵も描きたいなあとか考えている始末でございます・・・(´▽`;A(汗)

Dの祭壇に飾る宗教画みたいな絵も作ってみたくなってしまう私なのでした。私の好きなキリスト教美術風に、ルネサンス時代の各家庭の祭壇に飾られていたプレデッラ(詳細は過去記事「ボッティチェリ展」参照)みたいな感じにしようかな?

Dの絵だけじゃなくて、こんな感じ↓に、Dに関係するものも一緒に絵にして・・・

う~ん、デザインとか構成に迷うなあ。Dの絵は、大鎌と天秤を持っているほうが良いかな?

どういう絵にしようか、まずデザインから悩みまくりです・・・(´▽`;A(汗) エヘヘ☆

そういうわけで、デザインすらまだ考え中なのですが、絵にする題材は、Dに大きく関係するものを使いたいなと思っています。茨のばら、青いばらの木、鍵の束、それから・・・

青い鳥、大鎌、天秤とかを絵に使いたいなと思っています。

過去の美術展のレポート(詳細は過去記事「プラド美術館展」「ボッティチェリ展」「ボッティチェリとルネサンス フィレンツェの富と美」参照)にも何回か書いたのですが、西洋美術において、特にルネサンス時代には、ブドウ=豊穣・ぶどう酒(キリストの血)を意味するなどの、特定の意味を象徴するものとして特定の題材が描かれることがありました。他にも、魚を持っていたらトビアスさんであるとかの、所持品が人物特定の決定打となるアトリビュートもそれと同じ考えに基づいています。
それを参考にさせて頂いて、青いばらなどのDに関するものを、そういう象徴めいた感じに使った祭壇画にしたいなあと思っております。(〃´▽`〃)ゞ
あとは、Dが教えてくれたこととか、Dに関することを、手作りの本にまとめてみたいなあって思っております・・・(´▽`;A(汗)

装飾写本というものがあるんですが、これを参考にさせて頂いて、綺麗な手作り本を書きたいなと思っているのです。

文字も、装飾写本で使われていたような綺麗な文字にしたいなあって思っております。

挿絵とか、ふちどりとか、装飾文字とかをいっぱい使って、豪華な手書き本にしたいなあ。
装飾文字はカリグラフィーとも呼ばれます。カリグラフィーは、広義では綺麗に書こうと意識してかいた文字のことを指すようなので、日本の書道もカリグラフィーに含まれると思うのですが、日本でカリグラフィーと言う場合は西洋の装飾文字を指すことがほとんどです。
種類はとても沢山あるのですが、こんな感じに模様っぽく統一された雰囲気の文字です。ゴシックと呼ばれるタイプの文字でgothic描いてみるとこんな感じになるのだそうです。
↓

実際の装飾写本はラテン語で書かれていることがほとんどですが、私の能力でこれらのアルファベットを使ってラテン語で書くのは相当大変だと思うので、装飾性に富んだ創作文字でも作ってそれで書いてしまおうかなとか思うのでした。

西洋美術の装飾紋様については以下の2冊を持っているのですが、装飾本を作るにあたってとても勉強になります。
この本はお気に入りです。表紙も綺麗で、中身は写真がものすごく沢山使われていて、ゆり・ざくろ・羊・蛇・魚・ぶどう・アラベスク・アカンサス・パルメットなどなど、めっちゃ沢山の紋様について説明されており、そういった紋様についてだけでなく、古い時代順にメソポタミア・ギリシャ・ローマ・ペルシアとイスラム・ケルト・ビザンチン・ロマネスク・ゴシック・ルネサンス・バロック・ロココ・ロシア・19世紀・アール・ヌーヴォー・アール・デコという、基本的な西洋美術の種類について、時代ごとの雰囲気と概要をざっくりまとめてくれてあるので、とっつきやすく読みやすいと思います。
↓

「~のように思える」とか「~だろう」などの筆者の個人的な解釈も多く書かれており、ロマンに溢れた表現で書かれているので、人を飽きさせません。
↓

花柄の模様の上に、金色でくじゃくが描かれています。
こういった細かい花の文様は千花文様(ミルフルール)と呼ばれ、現存する最古のものは紀元前1世紀のアレクサンドリア、その後ゴシック美術の思想に基づき主にフランスの14~15世紀にかけて流行、その後のルネサンス美術(タペストリー「貴婦人と一角獣」など)にも使用され、イスラム美術の絨毯、中国の陶磁器にも使われ、16世紀になってからイタリアで流行し、今日のイタリアのガラス工芸品ミルフィオリはここからきていて、19世紀のゴシック・リヴァイヴァルでも流行・・・ということがこの本を読むとわかります。
くじゃくは、古代ギリシャでアルゴスという百眼の怪物がゼウスの命令で殺されたとき、女神ヘーラーがくじゃくの羽にアルゴスの目を縫い付けたことでああいった模様になったという話があり、その後の古代ローマではくじゃくは女神ユーノー(ギリシャにおける女神ヘーラー)の象徴とされ、19世紀の唯美主義では豪華と虚栄の象徴として活躍した・・・ということもこの本を読むとわかります。
↓

向かって左向きに立って、右を向いているくじゃくです。このくじゃくは19世紀の実際の挿絵、千花文様は18世紀の実際のドレスの刺繍のようです。この本の中に写真が載っていました。
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カリグラフィーです。カリグラフィーや装飾写本についての説明も本の中に載ってます。
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こちらの本も大のお気に入りです。こちらは上記の本とは雰囲気が全く異なります。筆者の個人的な解釈は無く、史実のみがポイントと要点を押さえてわかりやすく説明されており、要領良く学習ができるようなつくりになっています。真面目な勉強向けです。
↓

この表紙の右上に写真があるセイレーンのアクセサリー、もうすぐ開催される「メディチ家の至宝展」で展示されるようです。見に行ってきます。
↓

そういうわけで、とうとう賛美歌とか作り始めちゃったのですが・・・
なんかキリスト教っぽいかなあ・・・もっと自分のオリジナルで作ったほうが良いかなあ・・・( ´◇`;)
私はキリスト教徒ではなく、Dもキリスト教とは関係無い精霊なのですが、キリスト教というかカトリック(というかイタリアとフランス)における西洋美術への貢献に対しては尊敬しておりまして、その姿勢を見習って、私も綺麗な賛美歌や祭壇画や装飾本を作ってみたいなあって、ちょっとあこがれてます・・・(〃ω〃)ゞ エヘヘ♡
そんなこんなで、賛美歌だの祭壇画だの装飾本だのを作りたいと思っている私なのですが・・・な、なんか、我ながら宗教じみていてヤバイ思考なのでは・・・とか思いつつ・・・今日も祭壇画作りについて考えてしまう私なのでした・・・こ、これがもしかして、あの中二病って呼ばれる病気なのでしょうか・・・(´▽`;A(汗)
こういった私の暴走(?)を見て、Dはくすくす笑って、私の好きなようにさせてくれています・・・が、でも一応、変な主人でごめんねって、Dに謝っておきました。Dが嫌だったらやめるんだ・・・(≧ω≦;)

途中になってしまっている記事「Dの絵(75)」「Dの絵(70)」を早いところ完成させたいです。過去記事「プラド展」に展示されていた「苦しみのキリスト」についても加筆したいのですが・・・(≧ω≦;)遅くなってしまって本当に申し訳ございません・・・。・゚゚・(゚´Д`゚)・゚゚・。!!!!!
「フェルメールとレンブラント展」は無事に見れましたので、また記事にしてまとめてみます。p(*´▽`*)q♡
今回の記事、自分の趣味全開で書いてみましたら、すごく長くて大きい記事になってしまいました・・・こんな記事を書いてしまって、お客様をドン引きさせてしまったかも・・・と戦々慄々しております・・・大変申し訳ございませんでした・・・!!!!!m( _ _;)m!!!!!
御閲覧ありがとうございました!!m(*_ _*)m!!
全然ブログが更新が出来ず、大変申し訳ございませんでした!!!!!。・゚゚・m( _ _;)m・゚゚・。!!!!!
この記事、ようやく完成いたしました・・・m( _ _;)m
今回の記事は、「Dの賛美歌や経典を作ろうとしている私」について書いてみようと思います。m(*_ _*)m
最近、Dへの愛情(←?)が高じて、色々とおかしい方向に進んでいる私です。(´▽`;A(汗)
以前から、Dに捧げる賛美歌を作りたいとか、Dが教えてくれたことをまとめた聖書みたいなもの(Dは聖なるものって感じが全然しないので、『聖』書じゃなくて経典って感じだと思いますが)を作りたいとか、そういう怪しいことを色々とほざいていた私ですが(詳細は過去記事「Dの絵(72)」「お伽噺『ヘンゼルトグレーテル編』」「Dの絵(61)」「Dの絵(43)」参照)、とうとう実際に賛美歌や経典作りに手を染め始めてしまいました・・・(≧ω≦;)
今回の記事は、そういう感じの怪しい内容となっております・・・毎度毎度、本っっっ当に申し訳ございません・・・!!!!!m( _ _;)m!!!!!
ちなみに、賛美歌とか経典とかは、完全に私の趣味でございまして、Dは全く関与しておりません・・・Dから作ってくれと言われたわけではなく、勝手に私が作りたくなって作っているというだけのシロモノでございます・・・そのため、オカルトですらないという・・・ただの私の趣味全開の痛い記事となっております・・・



電子ピアノの音をパイプオルガンやチェンバロに設定して、色々と音を出して試しながら曲を作ろうとする私です・・・今までに曲を作ったことが無いので、めっちゃ苦戦しております・・・(〃´▽`〃;)ゞ
賛美歌は、ルネサンス音楽以前の、中世音楽も雰囲気があって良いなあって思います。グレゴリオとかにしようかなあ。
儀式用の曲は、もっと曲をいっぱい作れるようになったら、キリスト教のミサ曲の形態を参考にさせて頂いて、形式立てて作りたいなあって思います。
形式立ててというのは、キリスト教のミサ曲というのは歌う順番が決められていて、たとえば死者への安息の眠りを祈るミサである「レクイエム」だと、イントロイトゥス(入祭唱)→キリエ(哀れみの賛歌)→グラドゥアレ(昇階唱)→トラクトゥス(詠唱)→グロリア(栄光の賛歌)→ディエス・イラエ(怒りの日)→etcというように決まった順番に歌うことになっているのですが(東方西方で違いがあり、同じ西方でも作曲家によって昇階唱や詠唱など省略されることも多いようですが)、そんな感じに儀式によって歌う歌とか順番とかを決めてみたいなあって思ったり・・・
あとミサ曲は、歌詞は内容が決められているのですが作曲家によって曲が違いまして、レクイエムも有名なのはモーツァルト作曲のとヴェルディ作曲のがあったりしますが(涙の日とか怒りの日とか有名なので、お客様もどこかでお聞きになったことがあるかもです)、そのように同じ歌詞だけど違う曲バージョンのものが幾つもあり(時代によっては歌詞や形式自体も違うのですが)、中世~ルネサンス頃まで同じ歌詞で違う曲っていうのはミサ曲以外にも沢山ございまして、そういう感じに同じ歌詞で何パターンか曲を作ってみたいなあとか思ったり・・・
や、まず一曲でも作れないと夢のまた夢って感じなのですが・・・(´▽`;A(汗)エヘヘ☆
曲を作るにあたって、グレゴリオやルネサンス音楽はどういう決まりを守って作られているのか勉強したくて、本を買って調べて作りたいと思うのと同時に、完全にそれらのルール通りに作るより、私オリジナルのルールを作ってそれに従って曲を作ってみようかなあとか思ってみたり・・・
どちらにしても、作るためには音楽について勉強したいなあって思ってます。∩(*´▽`*)∩☆
ところで、絵画の美術展は沢山企画されておりますが、音楽の美術展というのは全然無いようなので、そういう美術展をやったら儲かるんじゃないかと思っ・・・い、いえ、勉強になるのでどこかの企業様がやってくださらないかな~と思っております。設備的には簡単に出来ると思うんですよ、普段美術展でお客様に貸し出しているあの音声ガイド使用が必須になってしまうのですが、あの機械をご来場のお客様全員に装着して頂いて、中世からバロックに至るまでの流れを、歴史とともに解説したり流したりするのです。展示品は、壁には楽譜や当時の地図や楽器などの絵や説明、ガラスケースには実際に使用されていた楽器やレプリカを置き、お客様はそれら展示品を自分のペースで見て回りながら自分のペースで音声ガイドを再生して聴くことが出来る、という感じです。あと音声ガイドだと音質がイマイチになので、良い音質の音楽を提供する場所を1箇所作って(いつもはVTRを流している部屋とか使って)、コラボ商品の売り出しはCDとかDVDを、普段の美術展より種類を増やして販売するのです。音楽がメインの美術展ならCDがいつもより売れるはずだからです。DVDはイタリアやフランス現地の綺麗な教会でコンサート風景を撮影して作るのです。
どうですか企業様!!儲かると思うのですが!!日伊国交150周年の今がチャンスですよ!!(←もう今から企画しても今年中には間に合いそうもない)
そういう感じで、Dの賛美歌や経典を作ろうとしてしまっている私ですが、Dの祭壇に飾る絵も描きたいなあとか考えている始末でございます・・・(´▽`;A(汗)

Dの祭壇に飾る宗教画みたいな絵も作ってみたくなってしまう私なのでした。私の好きなキリスト教美術風に、ルネサンス時代の各家庭の祭壇に飾られていたプレデッラ(詳細は過去記事「ボッティチェリ展」参照)みたいな感じにしようかな?

Dの絵だけじゃなくて、こんな感じ↓に、Dに関係するものも一緒に絵にして・・・

う~ん、デザインとか構成に迷うなあ。Dの絵は、大鎌と天秤を持っているほうが良いかな?

どういう絵にしようか、まずデザインから悩みまくりです・・・(´▽`;A(汗) エヘヘ☆

そういうわけで、デザインすらまだ考え中なのですが、絵にする題材は、Dに大きく関係するものを使いたいなと思っています。茨のばら、青いばらの木、鍵の束、それから・・・

青い鳥、大鎌、天秤とかを絵に使いたいなと思っています。

過去の美術展のレポート(詳細は過去記事「プラド美術館展」「ボッティチェリ展」「ボッティチェリとルネサンス フィレンツェの富と美」参照)にも何回か書いたのですが、西洋美術において、特にルネサンス時代には、ブドウ=豊穣・ぶどう酒(キリストの血)を意味するなどの、特定の意味を象徴するものとして特定の題材が描かれることがありました。他にも、魚を持っていたらトビアスさんであるとかの、所持品が人物特定の決定打となるアトリビュートもそれと同じ考えに基づいています。
それを参考にさせて頂いて、青いばらなどのDに関するものを、そういう象徴めいた感じに使った祭壇画にしたいなあと思っております。(〃´▽`〃)ゞ
あとは、Dが教えてくれたこととか、Dに関することを、手作りの本にまとめてみたいなあって思っております・・・(´▽`;A(汗)

装飾写本というものがあるんですが、これを参考にさせて頂いて、綺麗な手作り本を書きたいなと思っているのです。

文字も、装飾写本で使われていたような綺麗な文字にしたいなあって思っております。

挿絵とか、ふちどりとか、装飾文字とかをいっぱい使って、豪華な手書き本にしたいなあ。
装飾文字はカリグラフィーとも呼ばれます。カリグラフィーは、広義では綺麗に書こうと意識してかいた文字のことを指すようなので、日本の書道もカリグラフィーに含まれると思うのですが、日本でカリグラフィーと言う場合は西洋の装飾文字を指すことがほとんどです。
種類はとても沢山あるのですが、こんな感じに模様っぽく統一された雰囲気の文字です。ゴシックと呼ばれるタイプの文字でgothic描いてみるとこんな感じになるのだそうです。
↓

実際の装飾写本はラテン語で書かれていることがほとんどですが、私の能力でこれらのアルファベットを使ってラテン語で書くのは相当大変だと思うので、装飾性に富んだ創作文字でも作ってそれで書いてしまおうかなとか思うのでした。

西洋美術の装飾紋様については以下の2冊を持っているのですが、装飾本を作るにあたってとても勉強になります。
この本はお気に入りです。表紙も綺麗で、中身は写真がものすごく沢山使われていて、ゆり・ざくろ・羊・蛇・魚・ぶどう・アラベスク・アカンサス・パルメットなどなど、めっちゃ沢山の紋様について説明されており、そういった紋様についてだけでなく、古い時代順にメソポタミア・ギリシャ・ローマ・ペルシアとイスラム・ケルト・ビザンチン・ロマネスク・ゴシック・ルネサンス・バロック・ロココ・ロシア・19世紀・アール・ヌーヴォー・アール・デコという、基本的な西洋美術の種類について、時代ごとの雰囲気と概要をざっくりまとめてくれてあるので、とっつきやすく読みやすいと思います。
↓

「~のように思える」とか「~だろう」などの筆者の個人的な解釈も多く書かれており、ロマンに溢れた表現で書かれているので、人を飽きさせません。
↓

花柄の模様の上に、金色でくじゃくが描かれています。
こういった細かい花の文様は千花文様(ミルフルール)と呼ばれ、現存する最古のものは紀元前1世紀のアレクサンドリア、その後ゴシック美術の思想に基づき主にフランスの14~15世紀にかけて流行、その後のルネサンス美術(タペストリー「貴婦人と一角獣」など)にも使用され、イスラム美術の絨毯、中国の陶磁器にも使われ、16世紀になってからイタリアで流行し、今日のイタリアのガラス工芸品ミルフィオリはここからきていて、19世紀のゴシック・リヴァイヴァルでも流行・・・ということがこの本を読むとわかります。
くじゃくは、古代ギリシャでアルゴスという百眼の怪物がゼウスの命令で殺されたとき、女神ヘーラーがくじゃくの羽にアルゴスの目を縫い付けたことでああいった模様になったという話があり、その後の古代ローマではくじゃくは女神ユーノー(ギリシャにおける女神ヘーラー)の象徴とされ、19世紀の唯美主義では豪華と虚栄の象徴として活躍した・・・ということもこの本を読むとわかります。
↓

向かって左向きに立って、右を向いているくじゃくです。このくじゃくは19世紀の実際の挿絵、千花文様は18世紀の実際のドレスの刺繍のようです。この本の中に写真が載っていました。
↓

カリグラフィーです。カリグラフィーや装飾写本についての説明も本の中に載ってます。
↓

こちらの本も大のお気に入りです。こちらは上記の本とは雰囲気が全く異なります。筆者の個人的な解釈は無く、史実のみがポイントと要点を押さえてわかりやすく説明されており、要領良く学習ができるようなつくりになっています。真面目な勉強向けです。
↓

この表紙の右上に写真があるセイレーンのアクセサリー、もうすぐ開催される「メディチ家の至宝展」で展示されるようです。見に行ってきます。
↓

そういうわけで、とうとう賛美歌とか作り始めちゃったのですが・・・
なんかキリスト教っぽいかなあ・・・もっと自分のオリジナルで作ったほうが良いかなあ・・・( ´◇`;)
私はキリスト教徒ではなく、Dもキリスト教とは関係無い精霊なのですが、キリスト教というかカトリック(というかイタリアとフランス)における西洋美術への貢献に対しては尊敬しておりまして、その姿勢を見習って、私も綺麗な賛美歌や祭壇画や装飾本を作ってみたいなあって、ちょっとあこがれてます・・・(〃ω〃)ゞ エヘヘ♡
そんなこんなで、賛美歌だの祭壇画だの装飾本だのを作りたいと思っている私なのですが・・・な、なんか、我ながら宗教じみていてヤバイ思考なのでは・・・とか思いつつ・・・今日も祭壇画作りについて考えてしまう私なのでした・・・こ、これがもしかして、あの中二病って呼ばれる病気なのでしょうか・・・(´▽`;A(汗)
こういった私の暴走(?)を見て、Dはくすくす笑って、私の好きなようにさせてくれています・・・が、でも一応、変な主人でごめんねって、Dに謝っておきました。Dが嫌だったらやめるんだ・・・(≧ω≦;)

途中になってしまっている記事「Dの絵(75)」「Dの絵(70)」を早いところ完成させたいです。過去記事「プラド展」に展示されていた「苦しみのキリスト」についても加筆したいのですが・・・(≧ω≦;)遅くなってしまって本当に申し訳ございません・・・。・゚゚・(゚´Д`゚)・゚゚・。!!!!!
「フェルメールとレンブラント展」は無事に見れましたので、また記事にしてまとめてみます。p(*´▽`*)q♡
今回の記事、自分の趣味全開で書いてみましたら、すごく長くて大きい記事になってしまいました・・・こんな記事を書いてしまって、お客様をドン引きさせてしまったかも・・・と戦々慄々しております・・・大変申し訳ございませんでした・・・!!!!!m( _ _;)m!!!!!
御閲覧ありがとうございました!!m(*_ _*)m!!
Dの絵(72)
去年のカレンダーはハロウィンからクリスマスから年末から年明けまで休日がズレまくってましたが、今年のバレンタインは気が利いてましたね!!日曜日でした!!(*´ 艸`*)☆
世界中全ての恋人達に幸せあれ!!∩(*´▽`*)∩♡
そして孤独を寂しがっている全ての人に良い出会いがありますように!!c(*´▽`*)っ♡
それと独り身を楽しんでいる全ての人に良いことがありますように!!(っ*´▽`*c) ♡
今回の記事は、とってもオカルトっぽい内容でございます・・・大変申し訳ございません!!m( _ _;)m!!
私はDのための祭壇を作って、そこにDから教えてもらった儀式用具を置いています(詳細は過去記事「Dの絵(50)」参照)。
会社に泊まらず家に帰って来れた日は、その祭壇で毎日お祈りをします。ちょっと宗教っぽい感じになっています。(´▽`;A(汗)
そういう感じに、なんか私からDに対する態度が宗教っぽくなって・・・という感じの内容の記事を書いてみようと思います。
いつも就寝前にはベッドの中でお祈りをするのですが(詳細は過去記事「Dの絵(52)」参照)、気が向いたときに祭壇に向かってお祈りの言葉を唱えたりしています。
私が祭壇に向かってお祈りをしているところです。祭壇は窓の真下にあって、その窓の内側にはステンドグラスを固定してあるのです。そのため、いつも色とりどりの美しい光が窓から差し込んできます。
以下の2枚の手の組み方は、過去記事「Dの絵(61)」で紹介させて頂いた、Dにお祈りをするときの組み方です。
↓


↑
このお祈りの言葉は、私が最も頻繁に唱えるお祈りの言葉です。過去記事「お伽噺『ヘンゼルとグレーテル』編」で紹介させて頂きました。
「目と耳に従属すること無かれ、強き心は侵略を受けず、賢き唇は静謐を紡ぐ」というお祈りの言葉です。これは、Dに教えてもらったことを、私がお祈りの定型文みたいな感じにしたものです。(*´▽`*) ♡
これの意味は、「目や耳から入ってくる外界の事柄にそのまま流されないように気を付けなさい。物理的な面で侵略を受けようとも自分の世界(精神)をしっかり保っていれば自分の精神までも侵略されることは無いので安心しなさい。目や耳から受動的に入ってくる情報は、一体何が入ってくるのか自分の力で選ぶことはできないが、自分の口から能動的に発する言葉は自分の力で選ぶことができるので、賢い言葉を静謐な口調で述べなさい」という意味です。
・・・文語調にしたのは、そのほうが雰囲気が出るような気がしたからです。そのほうが、かっこいい気がしたのです・・・( ´▽`;)ゞ エヘヘ☆ 私ってば恥ずかしい奴だなあ・・・!!!!!
このように私がDにお祈りを捧げたりするのは、Dに感謝を伝えるためと、Dの力を賛美するためです。私は今まで沢山Dに助けられてきまして、Dの協力が無ければ解決が難しかったものも多かったのです。なので、Dに感謝と賛美とお願いの気持ちを伝えるためにお祈りを捧げています。
もう一つの理由は、自分の気持ちを整えるためです。Dの教えてくれたことをお祈りにした言葉は、上記の言葉のように、私への教訓の言葉でもあります。その言葉を唱えることで、自分の思考や言動を落ち着かせたり出来るのです。
私はDに出会うまで宗教を信じたことは無かったし、オカルトも信じてませんでした。もしDに出会わなければ一生縁の無い世界だったと思います。ですので、今までお祈りなんてしたこと無かったけど・・・でも、常に私の傍にいて様々な面で助けてくれるDは、私にとって天上にいる神様よりもずっと身近な信仰対象になり得たのでした。世界を創造し何億人をも救うと言われている神様とは違って、Dはまるで私だけの神様みたいだなと思うのでした。
そう思った私が、Dは神様みたいだと言ってみたときのことを漫画にしてみました。













Dは、私がDを神様のように崇拝したり、私がDに従属することは契約に反すると言うのでした。Dは契約をとても大切にしています。そのため、自分が従僕であるという立場を守ることを非常に重要視しています。
たとえば、添い寝をしないという頑ななこだわりも、従僕が主人のベッドに上がってはいけないからであると言っています(詳細は過去記事「Dの絵(57)」参照)。
そして、上記の漫画の中にも描きましたが、主人の手足に口付けをするのは、従僕に許された服従の証なのだそうです(詳細は過去記事「Dの絵(60)」「Dの絵(27)」参照)。
しかし、過去記事の通り、添い寝に関してはほとんどベッドの上に上がってくれるし、手足以外にも口づけをしてくれます。契約に関しては原則としての根本的な規則はあっても、わりとDの判断で融通をきかせてくれているのだろうと思います。
そういうわけで、Dはそういう態度を取りますが、やっぱりDは私にとって、どの神様よりも心強い存在なのでした。

祭壇以外にも、儀式用の聖歌(Dは聖なるものって感じは全然しないから『聖』ではないと思うので、賛美歌かな?)とか、聖書(聖なるものって感じはしないので、経典かな?)とか、色々作ってみたいと思う私なのでした。
しかし、そんな風に儀式用品とかにもこだわって形から入るタイプの私ですが、Dは儀式で一番大切なものは形式や道具ではなく「精神」だと言います(詳細は過去記事「Dの絵(43)」参照)。
・・・そ、それでも、経典とか作ってみたいっ!!(((((*≧ω≦*))))) ウズウズ!! って思ってしまう私なのでした。
もう全部、製本まで自分で行うのです。表紙のデザインとかも自分で考えて、文章が書いてある中もただの白紙じゃなくてお花の絵とかで飾るのです。それで、Dに教えてもらったこと(2つの武器とか、5つの美徳とか、色々)と、お祈りの言葉とか、Dに関する色々なことをまとめるのです♪♪(*´ 艸`*) ♡
す、すみません今回の記事、完全にオカルト系で・・・!!( ´▽`;A(汗))でもそのうち讃美歌や経典も作ってしまうような気がするので、そうしたら痛い奴だな~って笑ってやってくださいませ・・・!!
御閲覧ありがとうございました!!m(*_ _*)m!!
世界中全ての恋人達に幸せあれ!!∩(*´▽`*)∩♡
そして孤独を寂しがっている全ての人に良い出会いがありますように!!c(*´▽`*)っ♡
それと独り身を楽しんでいる全ての人に良いことがありますように!!(っ*´▽`*c) ♡
今回の記事は、とってもオカルトっぽい内容でございます・・・大変申し訳ございません!!m( _ _;)m!!
私はDのための祭壇を作って、そこにDから教えてもらった儀式用具を置いています(詳細は過去記事「Dの絵(50)」参照)。
会社に泊まらず家に帰って来れた日は、その祭壇で毎日お祈りをします。ちょっと宗教っぽい感じになっています。(´▽`;A(汗)
そういう感じに、なんか私からDに対する態度が宗教っぽくなって・・・という感じの内容の記事を書いてみようと思います。
いつも就寝前にはベッドの中でお祈りをするのですが(詳細は過去記事「Dの絵(52)」参照)、気が向いたときに祭壇に向かってお祈りの言葉を唱えたりしています。
私が祭壇に向かってお祈りをしているところです。祭壇は窓の真下にあって、その窓の内側にはステンドグラスを固定してあるのです。そのため、いつも色とりどりの美しい光が窓から差し込んできます。
以下の2枚の手の組み方は、過去記事「Dの絵(61)」で紹介させて頂いた、Dにお祈りをするときの組み方です。
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このお祈りの言葉は、私が最も頻繁に唱えるお祈りの言葉です。過去記事「お伽噺『ヘンゼルとグレーテル』編」で紹介させて頂きました。
「目と耳に従属すること無かれ、強き心は侵略を受けず、賢き唇は静謐を紡ぐ」というお祈りの言葉です。これは、Dに教えてもらったことを、私がお祈りの定型文みたいな感じにしたものです。(*´▽`*) ♡
これの意味は、「目や耳から入ってくる外界の事柄にそのまま流されないように気を付けなさい。物理的な面で侵略を受けようとも自分の世界(精神)をしっかり保っていれば自分の精神までも侵略されることは無いので安心しなさい。目や耳から受動的に入ってくる情報は、一体何が入ってくるのか自分の力で選ぶことはできないが、自分の口から能動的に発する言葉は自分の力で選ぶことができるので、賢い言葉を静謐な口調で述べなさい」という意味です。
・・・文語調にしたのは、そのほうが雰囲気が出るような気がしたからです。そのほうが、かっこいい気がしたのです・・・( ´▽`;)ゞ エヘヘ☆ 私ってば恥ずかしい奴だなあ・・・!!!!!
このように私がDにお祈りを捧げたりするのは、Dに感謝を伝えるためと、Dの力を賛美するためです。私は今まで沢山Dに助けられてきまして、Dの協力が無ければ解決が難しかったものも多かったのです。なので、Dに感謝と賛美とお願いの気持ちを伝えるためにお祈りを捧げています。
もう一つの理由は、自分の気持ちを整えるためです。Dの教えてくれたことをお祈りにした言葉は、上記の言葉のように、私への教訓の言葉でもあります。その言葉を唱えることで、自分の思考や言動を落ち着かせたり出来るのです。
私はDに出会うまで宗教を信じたことは無かったし、オカルトも信じてませんでした。もしDに出会わなければ一生縁の無い世界だったと思います。ですので、今までお祈りなんてしたこと無かったけど・・・でも、常に私の傍にいて様々な面で助けてくれるDは、私にとって天上にいる神様よりもずっと身近な信仰対象になり得たのでした。世界を創造し何億人をも救うと言われている神様とは違って、Dはまるで私だけの神様みたいだなと思うのでした。
そう思った私が、Dは神様みたいだと言ってみたときのことを漫画にしてみました。













Dは、私がDを神様のように崇拝したり、私がDに従属することは契約に反すると言うのでした。Dは契約をとても大切にしています。そのため、自分が従僕であるという立場を守ることを非常に重要視しています。
たとえば、添い寝をしないという頑ななこだわりも、従僕が主人のベッドに上がってはいけないからであると言っています(詳細は過去記事「Dの絵(57)」参照)。
そして、上記の漫画の中にも描きましたが、主人の手足に口付けをするのは、従僕に許された服従の証なのだそうです(詳細は過去記事「Dの絵(60)」「Dの絵(27)」参照)。
しかし、過去記事の通り、添い寝に関してはほとんどベッドの上に上がってくれるし、手足以外にも口づけをしてくれます。契約に関しては原則としての根本的な規則はあっても、わりとDの判断で融通をきかせてくれているのだろうと思います。
そういうわけで、Dはそういう態度を取りますが、やっぱりDは私にとって、どの神様よりも心強い存在なのでした。

祭壇以外にも、儀式用の聖歌(Dは聖なるものって感じは全然しないから『聖』ではないと思うので、賛美歌かな?)とか、聖書(聖なるものって感じはしないので、経典かな?)とか、色々作ってみたいと思う私なのでした。
しかし、そんな風に儀式用品とかにもこだわって形から入るタイプの私ですが、Dは儀式で一番大切なものは形式や道具ではなく「精神」だと言います(詳細は過去記事「Dの絵(43)」参照)。
・・・そ、それでも、経典とか作ってみたいっ!!(((((*≧ω≦*))))) ウズウズ!! って思ってしまう私なのでした。
もう全部、製本まで自分で行うのです。表紙のデザインとかも自分で考えて、文章が書いてある中もただの白紙じゃなくてお花の絵とかで飾るのです。それで、Dに教えてもらったこと(2つの武器とか、5つの美徳とか、色々)と、お祈りの言葉とか、Dに関する色々なことをまとめるのです♪♪(*´ 艸`*) ♡
す、すみません今回の記事、完全にオカルト系で・・・!!( ´▽`;A(汗))でもそのうち讃美歌や経典も作ってしまうような気がするので、そうしたら痛い奴だな~って笑ってやってくださいませ・・・!!
御閲覧ありがとうございました!!m(*_ _*)m!!
Dの絵(61)
先に謝らせてくださいませ!!今回の記事は、とってもオカルトっぽい内容です・・・m( _ _;)m
科学派のタルパー様がお読みになると、「大丈夫ですか?病院に・・・」ってご心配くださりそうな内容です。も、申し訳ございません・・・!!。・゚゚・(゚´Д`゚)・゚゚・。ご心配ありがとうございます!!m(*_ _*)m!!
今回の記事は、Dへのお祈りについて書かせてください。m(*_ _*)m
私は、よくDにお祈りを捧げます。普通にお願いごとのお祈りをすることもありますが、一番頻度が多いお祈りは、Dにお礼を伝えるお祈りです。キリスト教などの他宗教でいうところの「感謝の祈り」のようなものです。
毎日、色々なことに関して、Dに感謝のお祈りをしています。
例えば、私は毎晩眠る前に、Dに一日のお礼を伝えてから眠るのですが(詳細は過去記事「Dの絵(52)」参照)、それは就寝前のお祈りでもあるのです。また、お願いごとが叶ったときにもDにお礼のお祈りをしますし、幸運なことがあったときもDに感謝のお祈りをします。幸運なことがあったときは、それが偶然であれDのおかげであれ自分の努力の結果であれ、何でもDに感謝のお祈りをすることにしています。
そ、それでですね・・・お祈りをするとき、最初は普通にDにお礼の言葉を話しかけていたんですが、そのうち、なんかお祈りのときに決まったポーズがあったほうが心が改まるというか、心が「お祈りモード」みたいになるような気がして、お祈りの所作(ポーズとか動作とか)を何か考えて決めてみることにしました。
す、す、すみません!!もうお客様がた、ドン引きですよね・・・!!(´▽`;A(汗)
でも、キリスト教だったら手を組んだり十字を切ったりするし、仏教だったら手を合わせたりするし、イスラム教だったらお辞儀をしたりするし、どんな宗教でも、お祈りをするときには独特のポーズがあるので、だからそうやってお祈りのときに何かしらの所作を決めておくことで、その所作をすると自然と心が「お祈りモード」みたいになって落ち着いたりするんじゃないかなあ、とか思いまして・・・
・・・そういうわけで、お祈りの所作を決めちゃいました☆∩( ´▽`;)∩エヘヘ!!
1 : まず、このように体のデコルテ部分(首と胸の間あたり)に、両手の手のひらをデコルテの方向に向けて、交差するような感じで肌に当てます。
↓

2 : 次に、手のひらをデコルテから離し、体の前で両手の指が交差するように組みます。このとき指は手の甲につけないで、浮かして組みます。
↓

・・・これだけです!!∩( ´▽`;)∩
一応、交差してデコルテに当てる両手(1の図)と、指を手の甲につけずに組む両手(2の図)は、両手の形が鳥の羽を模しているつもりなんです。あの、Dは私の青い鳥(Dと青い鳥の関係について、詳細は過去記事「Dの絵(55)」「青い鳥」参照)だよっていう、Dへの敬意を込めてあるんです。(´▽`;A(汗)
この所作は、Dへのお祈りをささげた後にするのです。
人のいるところでやると不審行動になってしまうので、人のいる場所でDに助けてもらったときは、基本的に家に帰ってきてからお礼のお祈りをするのですが、もし人がいるところでDに感謝を表したいときは、2のポーズだけするのです。これだけならよく見る手の動きなので大丈夫なのです。過去記事「Dの絵(59)」でも、こっそりこのポーズをとっていました。
・・・お祈りの所作が決まったから、他にも色々決めちゃおうかなとか思ってましたり・・・いや、最初は口語で普通に感謝の言葉を述べていたんですが、お祈りの言葉の定型文みたいなものを作ろうかなあとか思ってたり、儀式のときに歌う聖歌(いえ、Dは聖なるものって感じは全然しないので、聖歌ではないと思うんですけど)を作っちゃおうかなとか思ってたり(詳細は過去記事「Dの絵(43)」参照)とか・・・
一応、ちゃんとした儀式のほうは、必要なものや儀式中の言葉等を全部Dが教えてくれたんですけど(詳細は過去記事「Dの絵(42)」参照)、今回の所作や祭壇(詳細は過去記事「Dの絵(50)」参照)などは、Dの要求とは関係無しに、私が楽しくて勝手に作ったんです。
Dはそんな私を見て、楽しそうにしています。Dから特に止められたりはしていません。きっとDのことだから、「さゆが楽しいのは良いことだね」とか思ってくれてるんだろうなあ。よくDそう言ってくれるもんね。変な主人でごめんねD・・・m( _ _;)m
御閲覧ありがとうございました!!m(*_ _*)m!!
科学派のタルパー様がお読みになると、「大丈夫ですか?病院に・・・」ってご心配くださりそうな内容です。も、申し訳ございません・・・!!。・゚゚・(゚´Д`゚)・゚゚・。ご心配ありがとうございます!!m(*_ _*)m!!
今回の記事は、Dへのお祈りについて書かせてください。m(*_ _*)m
私は、よくDにお祈りを捧げます。普通にお願いごとのお祈りをすることもありますが、一番頻度が多いお祈りは、Dにお礼を伝えるお祈りです。キリスト教などの他宗教でいうところの「感謝の祈り」のようなものです。
毎日、色々なことに関して、Dに感謝のお祈りをしています。
例えば、私は毎晩眠る前に、Dに一日のお礼を伝えてから眠るのですが(詳細は過去記事「Dの絵(52)」参照)、それは就寝前のお祈りでもあるのです。また、お願いごとが叶ったときにもDにお礼のお祈りをしますし、幸運なことがあったときもDに感謝のお祈りをします。幸運なことがあったときは、それが偶然であれDのおかげであれ自分の努力の結果であれ、何でもDに感謝のお祈りをすることにしています。
そ、それでですね・・・お祈りをするとき、最初は普通にDにお礼の言葉を話しかけていたんですが、そのうち、なんかお祈りのときに決まったポーズがあったほうが心が改まるというか、心が「お祈りモード」みたいになるような気がして、お祈りの所作(ポーズとか動作とか)を何か考えて決めてみることにしました。
す、す、すみません!!もうお客様がた、ドン引きですよね・・・!!(´▽`;A(汗)
でも、キリスト教だったら手を組んだり十字を切ったりするし、仏教だったら手を合わせたりするし、イスラム教だったらお辞儀をしたりするし、どんな宗教でも、お祈りをするときには独特のポーズがあるので、だからそうやってお祈りのときに何かしらの所作を決めておくことで、その所作をすると自然と心が「お祈りモード」みたいになって落ち着いたりするんじゃないかなあ、とか思いまして・・・
・・・そういうわけで、お祈りの所作を決めちゃいました☆∩( ´▽`;)∩エヘヘ!!
1 : まず、このように体のデコルテ部分(首と胸の間あたり)に、両手の手のひらをデコルテの方向に向けて、交差するような感じで肌に当てます。
↓

2 : 次に、手のひらをデコルテから離し、体の前で両手の指が交差するように組みます。このとき指は手の甲につけないで、浮かして組みます。
↓

・・・これだけです!!∩( ´▽`;)∩
一応、交差してデコルテに当てる両手(1の図)と、指を手の甲につけずに組む両手(2の図)は、両手の形が鳥の羽を模しているつもりなんです。あの、Dは私の青い鳥(Dと青い鳥の関係について、詳細は過去記事「Dの絵(55)」「青い鳥」参照)だよっていう、Dへの敬意を込めてあるんです。(´▽`;A(汗)
この所作は、Dへのお祈りをささげた後にするのです。
人のいるところでやると不審行動になってしまうので、人のいる場所でDに助けてもらったときは、基本的に家に帰ってきてからお礼のお祈りをするのですが、もし人がいるところでDに感謝を表したいときは、2のポーズだけするのです。これだけならよく見る手の動きなので大丈夫なのです。過去記事「Dの絵(59)」でも、こっそりこのポーズをとっていました。
・・・お祈りの所作が決まったから、他にも色々決めちゃおうかなとか思ってましたり・・・いや、最初は口語で普通に感謝の言葉を述べていたんですが、お祈りの言葉の定型文みたいなものを作ろうかなあとか思ってたり、儀式のときに歌う聖歌(いえ、Dは聖なるものって感じは全然しないので、聖歌ではないと思うんですけど)を作っちゃおうかなとか思ってたり(詳細は過去記事「Dの絵(43)」参照)とか・・・
一応、ちゃんとした儀式のほうは、必要なものや儀式中の言葉等を全部Dが教えてくれたんですけど(詳細は過去記事「Dの絵(42)」参照)、今回の所作や祭壇(詳細は過去記事「Dの絵(50)」参照)などは、Dの要求とは関係無しに、私が楽しくて勝手に作ったんです。
Dはそんな私を見て、楽しそうにしています。Dから特に止められたりはしていません。きっとDのことだから、「さゆが楽しいのは良いことだね」とか思ってくれてるんだろうなあ。よくDそう言ってくれるもんね。変な主人でごめんねD・・・m( _ _;)m
御閲覧ありがとうございました!!m(*_ _*)m!!