バレンタインです…!!!!∩(〃´▽`〃)∩♡゜*+. 私とDとゴシック大聖堂
またブログの更新が滞ってしまい、大変申し訳ございませんでした…!!!!仕事で…!!!!∩(〃TωT〃)∩!!!!
仕事の件については、確定申告のことも含め、また記事にしてみようと思います。
過去記事「シャルトル大聖堂」を完成しました。良かったら見てやってくださいますと、とっても嬉しいです。m(〃_ _〃)m
バレンタインですね…!!お客様がた、ブロガー様がた、いつもお世話になり誠にありがとうございます…!!!!m(〃_ _〃)m♡♡♡♡♡


日頃の感謝を込めまして、皆様にチョコレートを…!!!! いつもありがとうございますです!!!!(っ〃▽〃c)♡♡♡♡♡
今回フランスに行ってみたら、色々と思いついたことがあったので、この記事に書いてみようと思います。(〃´▽`〃)ゞ☆
私は、自分の気持ち的には無宗教ですが、フランスで産まれてすぐカトリックの洗礼を受けたので、体的にはカトリックなんです。洗礼を受けておきながら日本に来てから教会に通うのをやめてしまい…等、自分の中で「宗教」に対して葛藤があったので、リアルではもちろんブログですら、カトリックの洗礼を受けたことは最近までずっと黙ってました。「なんかこいつカトリックに詳しいな…?」って勘付いていらっしゃったお客様もいらっしゃったと思いますが、どなた様もツッコミを入れず静かに見守ってくださいましたこと、心よりお礼を申し上げます…。・゚゚・(っ〃TωT〃c)・゚゚・。
フランスと日本では、オカルト観(オカルト的感覚)が違うんじゃないかな?と以前から思っていたんですが…
↓

日本のホラー映画やホラー漫画、テレビ等の怖い話を見ていると、その「悪霊」とか「呪い」の根本にある性質…「穢れ」という概念は、日本独特のものなんじゃないかな?と思いました。
「悪霊」とか「呪い」への対処法が、「穢れ」を「祓う(はらう)」=お祓い(おはらい)をして解決する、という考え方がそれです。それは神道的な考え方なんじゃないかなあと思います。
他にもよく日本のホラーで使われる対処法として、お経などを読んで「除霊」するという方法のほうは、仏教に見えるけどもともとの仏教(インド)には無い概念で、密教(中国)で産まれた概念なんだそうです。
日本のオカルトは、そのような、神道系の概念と仏教(というか密教)の概念が独自にミックスされているんじゃないかな?
現在の私は、もう日本に10年以上もいるので、そういった、日本人の感じている感覚がなんとなくわかります。
でもフランスにいた頃は、そういうオカルト的感覚は無かったなあって、今回フランスに行ってみて思い出しました。思い出したというか、飛行機を降りてパリ・シャルル・ド・ゴール空港に足を踏み入れた途端、私の精神(?)が、自然にフランス的に切り替わったんです。
フランスは日本よりずっと治安が悪いです。移民・難民が常に流入していて、油断していると貴重品を奪われてしまいます。自分の所持品には常に気を配っていないといけません。パリでさっそく私は、ロム(ロマ、ジプシー:国籍を持たない外国人)の人々に声をかけられました。

私は無意識に良い対応ができていました。日本での私は、日本人らしく、道で話しかけられたら立ち止まるし、にこやかな笑顔で対応しますし、相手から「英語話せますか?」と尋ねられたら相手は道に迷った観光客なんだろうなと判断して協力しようとします。でもフランスでロムの人に「英語話せますか?」と尋ねられたらスリかひったくりだ、という警戒があって…、そういうフランス的感覚に、私は無意識に切り替わっていたみたいなんです。

そういう言動の違いだけじゃなく、もっと根本的な、精神面においての違いが…日本にいるときとフランスにいるときで、私の精神(感情の動きとか、考え方とか)に、違いがあるって気が付きました。
もし日本だったら私は、道で話しかけてきた人に対して、こんな酷い態度を取るなんて、申し訳無いなあっていう罪悪感で胸が痛くなったはずです。自分でそう思おうとしなくても、勝手に心がそう感じるんです。
でもフランスでは、機械的にこういう態度を取ることができました。フランスにいた頃の、習性というか考え方の癖みたいなものが原因だと思います。
まるで、フランスにいた頃の幼い私(過去記事では「エヴの私」として登場しました)が、現在の私を助けてくれたように感じました。この絵の中にいる小さい私(エヴの私)は過去記事「お伽噺『ガリヴァー旅行記』編」「愛は青い色」「パパとダンス」などに登場しました。
↓

「エヴの私=フランス時代の私の考え方」とすると…、エヴの私は、「日本にきてから身につけた考え方=アリスの私(この絵の中の右の子)や、ラプンツェルの私(この絵の中に左のみつあみの子)とは、相反する考え方を持ってるんです。(アリスの私、ラプンツェルの私は過去記事「お伽噺『ガリヴァー旅行記』編」などに登場しました。)
↓

日本にいるときは全然気づかなかったのに、フランスに足を踏み入れたら、日本的な私とフランス的な私の意見が合わなくて、混乱しそうになったのです。
たとえば、善悪ですら、日本とフランスでは違ってくるんです。
日本的には、自分の個性(主張)をおさえて集団に合わせることが気づかいや思いやりであり、集団への敬意・貢献(善意)となり…、フランスでは逆に、自分の個性(主張)を最大限出して集団に見せる・情報を教えることが思いやりであり、集団への貢献(善意)となる、ですとか…
「平和」の概念も違います。日本の平和といえば、「波風立てず」の言葉のように、皆が自分の主張を少しずつ我慢して、互いに譲歩し合うことで「争いを避ける」、それが仲良くしている状態であり、平和であると考えます。フランスは逆で、皆が自分の意見を(殺されるなどの)恐れ無く言える状況であること、自分の意見を殺さずに言える状態であること、それが平和とされます。
議論すらも起こらない(避け合う)状態であることが平和だと考える日本と、全員が恐れずに議論できる状況にあることを平和だと考えるフランス、その価値観の違いは、私の中で無意識の混乱(ズレ)を作っていたようです。
以前、会社で仕事をうまくできなかった件(過去記事「」参照)は、この混乱(ズレ)が原因だと気づきました。これについては、仕事の記事にして、また詳しく書いてみようと思います。m(〃_ _〃)m
The non-confrontational nature of Japanと表現すれば良いでしょうか、日本的価値観(平和的集団主義)、私はそれを大切に思っているのにフランス的価値観(超絶個人主義)が抜けず、かといって完全にフランス的思考になりきることもできない、というかむしろ日本で生きているほうが楽で自分に合っている気がする…まるで自分がキメラみたいに思えました。もしかしてラテン語圏から日本に来た人はみんな混乱するのかな?英語圏は集団主義なので、個人主義のラテン語圏よりは、集団主義の日本とのズレが少ないのかな?
そうなのです、フランスに行ってみたら、私の根底に、フランス的個人主義が消えることができずに残っていることに気づきました。そしてそれは、カトリック的なオカルト観が、私の中にあるからなのだと思うのです。私の中にあるオカルト観は、日本で身につけた神道や仏教だけでなく、根底にカトリックがあるんだと気が付きました。
私はシャルトル大聖堂の薔薇窓を見上げました。シャルトル大聖堂は、過去記事「シャルトル大聖堂」に写真がいっぱいございます。良かったらどうぞ…!!!! ∩(〃´ω`〃)∩✿゜*+.
↓

薔薇窓を正面に見上げながら座れる位置に、椅子が綺麗に並べてありました。私はそこに座って、ずっと薔薇窓を見上げていました。あまりに美しかったからです。
↓



カトリックでは、世界にある色々な美しいもの、自然、生物、そして人間などは、神が作ったとされているのですが…もし本当に世界を作った何者かがいるのなら、それこそ芸術家だなあと思いました。
そして、そう考えると、私は自分の短所(と自分で思っている部分)も、うまく役立てることが出来る気がするのです。何故なら…
↓



私は子供の頃に自分で作ったぬいぐるみをとても大切にしていました。いびつで耳の大きさが左右違ったし、腕の太さも左右違ったので、父からは不格好だと笑われていました。でも私は全然気にしていませんでした。自分の作ったくまちゃんは、ゆがんだ部分や失敗した部分も思い入れがあって、私にとってはかわいかったからです。
大人になった今も、色々なものを作っています。それは仕事の企画書だったり、設計書だったり、趣味の文章だったり絵だったり…こうしてブログの記事を書くこともそうです。
自分が作ってきた仕事の中には、ボツになった企画書もあるし、日の目を見なかった設計書もあります。それらは会社から見れば失敗作ということになります。でも、私にとっては、それらの書類もすごく大切なんです。どれも一生懸命作ったから、思い入れがあるし、かわいいし、成功作と同じように大切にとってあります。(✿´ ꒳ ` )♡゜*+.
ブログの記事も絵もそうで、すごく時間がかかった厄介な記事も、うまく描けなかった絵も、他の記事と同じくらい大切に思っていて、大好きなんです。
人間である私ですら、自分の作ったものを大切に思っているのだから…、きっと神はそれ以上に、ご自分の作った人間を大切に思っておられるだろうと思いました。
神にとっては、私の性格や体のどの部分も、愛しておられるんじゃないかな。私が気にいらない私の部分や、直したい部分までも神は愛していて、更に、そういう部分を変えたいと思う私の考えも愛してくださっているんじゃないかな…
もし神がおられるとしたら、そう思っていらっしゃるのではないか…、そう思うと気持ちが楽になるのでした。いえ、私はほとんど無神論者なのですが…!! (〃´ω`〃)ゞ☆゜*+.
そうなのです、日本にいるときの私は無神論者なのですが、フランスの大聖堂の中では、フランスのオカルト観…フランス風カトリック的に考えて、それで気分が楽になるのでした。
↓

フランスのオカルト観、フランス風カトリック…、それは表向きはイタリアの(ヴァティカンのカトリックの総本山)ローマ・カトリックと同じということになっていても、フランス特有のノートルダム思想やフランス的個人主義などが混ざったカトリックであり、フランス独特の雰囲気を持っています。
フランスのオカルト観で考えるとき、私は、神は芸術家だと思うのでした。そして私は、神から大切にされている芸術作品の一つです。
私はシャルトル大聖堂の中で、お祈りをしました。日本での私は無神論者だけど、いいのです、ここはフランスだからです。
↓

「私達の父(=神)よ…、至高の芸術家であり、愛(←カトリック的な意味で)そのものであるあなたは、ご自分のおつくりになった芸術品を愛しておられるはず。ですから私のことも愛しておられ、大切に思っておられるでしょう。何故なら私も、ほかの人間達と同じく、あなたがお作りになった芸術品の一つなのですから…」
ならば、私が私を大切にすること自体が、神への敬意になるのだろう。私は自分の長所も短所も役立てたい。『 自分特有の個性 』を大切にしたい。それは神が私にしか与えなかった特別なものなのだから…
この考え方(フランスのオカルト観)こそが、フランスの個人主義とむすびついており…これこそが、私の「オカルト観」の根本となっているのだと思います。(ㆁᴗㆁ✿) ✿゜*+.
私がお祈りをしている間、ずっと後ろにDの気配がしていました。Dが静かに私を見守ってくれているのを感じました。

そして、日本に帰ってきた途端、私はいつもの私に戻れていたのでした。
↓

日本の治安の良さや、清潔な道&公共施設を見たり、空調が管理された室内の空気を感じると、日本に帰ってきたんだなあと実感して、嬉しくなるのでした。
↓

道などの公共施設の清潔さ…それは「他人に迷惑をかけない」=「他人を尊重することである」と考える日本独特の考えかたが作用しているんじゃないかなと思いました。この他者への「思いやり」、これをオカルト観で説明するなら、これは神道的な考え方なんじゃないかなあ。八百万の神々が、それぞれ譲り合って存在し合う、その「調和」を重んじる考え方は、「和の国」と呼ばれる日本独特のものだと思います。(ㆁᴗㆁ✿)♡゜*+.
波風を立てないように、個人がみんな少しずつ我慢することで集団の平和を保とうとする、個人がみんなで集団を尊重する「調和」…、それこそが日本の公共施設の清潔さや、災害時でも列を作って並び、暴動も略奪も起こさないという、日本が世界を感動させた行動につながっており、日本独自の美しさなんじゃないかなあと思いました。(っ〃´ω`〃c)✿゜*+.
やおよろずの全てのものに神が宿っている、だから全てに敬意をはらい、尊重し、大切にする…というのが日本の平等感なのかな?
この日本独自の考え方を、日本人は「オカルト観」とか「宗教観」としてとらえるのではなく、「(日本人としての)マナー」に分類しているのだと思います。だから日本は無宗教である(と日本人は認識している)にもかかわらず治安が良いんじゃないかな?
…というのは、一人のフランス人の目から見た日本のオカルト観(宗教観)への感想に過ぎないのですが…(〃´ω`〃)ゞエヘヘ☆
そんな風に私は、フランス的な考え方になったり、日本的な考え方になったりしましたが…Dは私とは違って、国を行き来することによる精神面での変化は、全く無いようでした。Dは人間じゃなくて、人間の精神を持っていないからだと思います。(人間とは違って何国人とかの分類に属さないから混乱しないんだと思います。)
でも、国を行き来したこの仕事は、私にとって、Dといっそう仲良くなるきっかけになりました。何故なら、Dは私の個性を好んでいるので(詳細は過去記事「記録と儀式」参照)、私が「自分の個性を大切にしたい」という気持ちになったこの旅は、Dにとって良いものだったからです。もちろん私にとっても得ることが多く、とても良いものになりました。
…4年前にDが「フランスに行こう」と言ったとき(詳細は過去記事「約束」参照)、まさか既にDは、こういう良い影響があるとわかっていて、そう言ってくれたのかな…?だとしたら、Dはすごいなあ…!!!! (〃゜ω゜〃;)✿゜*+.
昔フランスで産まれ、今は日本で働いている私は、今回の渡航で、あらゆる面において両国のものが自分の中でミックスされていると自覚しました。考え方も、言動も、心の動きも、体の動きも、血もです。郷に入っては郷に従えの言葉通り、その場所に合わせて変わる(変えざるを得ない)私の部分はあります。でも、どこの国にいても必ず存在する私の部分があって…、私はそれを自分の個性だと思いました。
どこの国に行っても変わらない「個性」だけは、神の国に行くときでさえ、持っていけるものなんじゃないかな…。(✿´ ꒳ ` )✿゜*+.
Dが好んでいる私の個性…、私だけしか持たない特性は、どんなものなんだろう。まだハッキリ見えていないものもあるから、これから生活していく中で、Dと一緒に見つけていきたいと思います。(ㆁᴗㆁ✿)♡゜*+.
↓

最近見つけた良い曲なのですが、「Santiago de Compostela : Novus annus dies magnus」と検索して、聴いてみてくださいまし…!!とっても綺麗なんです!!!! (*´꒳`*)✿゜*+.
教会と神社の違いとか、神様への敬意の表し方の違いとか、悪霊(?)に対する考え方の違いとか…、カトリックと神道ではだいぶ違うなあと思った部分があるので、それも記事に書いてみたいのですが、この記事とは内容がズレるものなので、それはまた別の記事にしてみますです。∩(〃´ω`〃)∩☆゜*+.
ご閲覧ありがとうございました…!! m(〃_ _〃)m!!
仕事の件については、確定申告のことも含め、また記事にしてみようと思います。
過去記事「シャルトル大聖堂」を完成しました。良かったら見てやってくださいますと、とっても嬉しいです。m(〃_ _〃)m
バレンタインですね…!!お客様がた、ブロガー様がた、いつもお世話になり誠にありがとうございます…!!!!m(〃_ _〃)m♡♡♡♡♡


日頃の感謝を込めまして、皆様にチョコレートを…!!!! いつもありがとうございますです!!!!(っ〃▽〃c)♡♡♡♡♡
今回フランスに行ってみたら、色々と思いついたことがあったので、この記事に書いてみようと思います。(〃´▽`〃)ゞ☆
私は、自分の気持ち的には無宗教ですが、フランスで産まれてすぐカトリックの洗礼を受けたので、体的にはカトリックなんです。洗礼を受けておきながら日本に来てから教会に通うのをやめてしまい…等、自分の中で「宗教」に対して葛藤があったので、リアルではもちろんブログですら、カトリックの洗礼を受けたことは最近までずっと黙ってました。「なんかこいつカトリックに詳しいな…?」って勘付いていらっしゃったお客様もいらっしゃったと思いますが、どなた様もツッコミを入れず静かに見守ってくださいましたこと、心よりお礼を申し上げます…。・゚゚・(っ〃TωT〃c)・゚゚・。
フランスと日本では、オカルト観(オカルト的感覚)が違うんじゃないかな?と以前から思っていたんですが…
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日本のホラー映画やホラー漫画、テレビ等の怖い話を見ていると、その「悪霊」とか「呪い」の根本にある性質…「穢れ」という概念は、日本独特のものなんじゃないかな?と思いました。
「悪霊」とか「呪い」への対処法が、「穢れ」を「祓う(はらう)」=お祓い(おはらい)をして解決する、という考え方がそれです。それは神道的な考え方なんじゃないかなあと思います。
他にもよく日本のホラーで使われる対処法として、お経などを読んで「除霊」するという方法のほうは、仏教に見えるけどもともとの仏教(インド)には無い概念で、密教(中国)で産まれた概念なんだそうです。
日本のオカルトは、そのような、神道系の概念と仏教(というか密教)の概念が独自にミックスされているんじゃないかな?
現在の私は、もう日本に10年以上もいるので、そういった、日本人の感じている感覚がなんとなくわかります。
でもフランスにいた頃は、そういうオカルト的感覚は無かったなあって、今回フランスに行ってみて思い出しました。思い出したというか、飛行機を降りてパリ・シャルル・ド・ゴール空港に足を踏み入れた途端、私の精神(?)が、自然にフランス的に切り替わったんです。
フランスは日本よりずっと治安が悪いです。移民・難民が常に流入していて、油断していると貴重品を奪われてしまいます。自分の所持品には常に気を配っていないといけません。パリでさっそく私は、ロム(ロマ、ジプシー:国籍を持たない外国人)の人々に声をかけられました。

私は無意識に良い対応ができていました。日本での私は、日本人らしく、道で話しかけられたら立ち止まるし、にこやかな笑顔で対応しますし、相手から「英語話せますか?」と尋ねられたら相手は道に迷った観光客なんだろうなと判断して協力しようとします。でもフランスでロムの人に「英語話せますか?」と尋ねられたらスリかひったくりだ、という警戒があって…、そういうフランス的感覚に、私は無意識に切り替わっていたみたいなんです。

そういう言動の違いだけじゃなく、もっと根本的な、精神面においての違いが…日本にいるときとフランスにいるときで、私の精神(感情の動きとか、考え方とか)に、違いがあるって気が付きました。
もし日本だったら私は、道で話しかけてきた人に対して、こんな酷い態度を取るなんて、申し訳無いなあっていう罪悪感で胸が痛くなったはずです。自分でそう思おうとしなくても、勝手に心がそう感じるんです。
でもフランスでは、機械的にこういう態度を取ることができました。フランスにいた頃の、習性というか考え方の癖みたいなものが原因だと思います。
まるで、フランスにいた頃の幼い私(過去記事では「エヴの私」として登場しました)が、現在の私を助けてくれたように感じました。この絵の中にいる小さい私(エヴの私)は過去記事「お伽噺『ガリヴァー旅行記』編」「愛は青い色」「パパとダンス」などに登場しました。
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「エヴの私=フランス時代の私の考え方」とすると…、エヴの私は、「日本にきてから身につけた考え方=アリスの私(この絵の中の右の子)や、ラプンツェルの私(この絵の中に左のみつあみの子)とは、相反する考え方を持ってるんです。(アリスの私、ラプンツェルの私は過去記事「お伽噺『ガリヴァー旅行記』編」などに登場しました。)
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日本にいるときは全然気づかなかったのに、フランスに足を踏み入れたら、日本的な私とフランス的な私の意見が合わなくて、混乱しそうになったのです。
たとえば、善悪ですら、日本とフランスでは違ってくるんです。
日本的には、自分の個性(主張)をおさえて集団に合わせることが気づかいや思いやりであり、集団への敬意・貢献(善意)となり…、フランスでは逆に、自分の個性(主張)を最大限出して集団に見せる・情報を教えることが思いやりであり、集団への貢献(善意)となる、ですとか…
「平和」の概念も違います。日本の平和といえば、「波風立てず」の言葉のように、皆が自分の主張を少しずつ我慢して、互いに譲歩し合うことで「争いを避ける」、それが仲良くしている状態であり、平和であると考えます。フランスは逆で、皆が自分の意見を(殺されるなどの)恐れ無く言える状況であること、自分の意見を殺さずに言える状態であること、それが平和とされます。
議論すらも起こらない(避け合う)状態であることが平和だと考える日本と、全員が恐れずに議論できる状況にあることを平和だと考えるフランス、その価値観の違いは、私の中で無意識の混乱(ズレ)を作っていたようです。
以前、会社で仕事をうまくできなかった件(過去記事「」参照)は、この混乱(ズレ)が原因だと気づきました。これについては、仕事の記事にして、また詳しく書いてみようと思います。m(〃_ _〃)m
The non-confrontational nature of Japanと表現すれば良いでしょうか、日本的価値観(平和的集団主義)、私はそれを大切に思っているのにフランス的価値観(超絶個人主義)が抜けず、かといって完全にフランス的思考になりきることもできない、というかむしろ日本で生きているほうが楽で自分に合っている気がする…まるで自分がキメラみたいに思えました。もしかしてラテン語圏から日本に来た人はみんな混乱するのかな?英語圏は集団主義なので、個人主義のラテン語圏よりは、集団主義の日本とのズレが少ないのかな?
そうなのです、フランスに行ってみたら、私の根底に、フランス的個人主義が消えることができずに残っていることに気づきました。そしてそれは、カトリック的なオカルト観が、私の中にあるからなのだと思うのです。私の中にあるオカルト観は、日本で身につけた神道や仏教だけでなく、根底にカトリックがあるんだと気が付きました。
私はシャルトル大聖堂の薔薇窓を見上げました。シャルトル大聖堂は、過去記事「シャルトル大聖堂」に写真がいっぱいございます。良かったらどうぞ…!!!! ∩(〃´ω`〃)∩✿゜*+.
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薔薇窓を正面に見上げながら座れる位置に、椅子が綺麗に並べてありました。私はそこに座って、ずっと薔薇窓を見上げていました。あまりに美しかったからです。
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カトリックでは、世界にある色々な美しいもの、自然、生物、そして人間などは、神が作ったとされているのですが…もし本当に世界を作った何者かがいるのなら、それこそ芸術家だなあと思いました。
そして、そう考えると、私は自分の短所(と自分で思っている部分)も、うまく役立てることが出来る気がするのです。何故なら…
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私は子供の頃に自分で作ったぬいぐるみをとても大切にしていました。いびつで耳の大きさが左右違ったし、腕の太さも左右違ったので、父からは不格好だと笑われていました。でも私は全然気にしていませんでした。自分の作ったくまちゃんは、ゆがんだ部分や失敗した部分も思い入れがあって、私にとってはかわいかったからです。
大人になった今も、色々なものを作っています。それは仕事の企画書だったり、設計書だったり、趣味の文章だったり絵だったり…こうしてブログの記事を書くこともそうです。
自分が作ってきた仕事の中には、ボツになった企画書もあるし、日の目を見なかった設計書もあります。それらは会社から見れば失敗作ということになります。でも、私にとっては、それらの書類もすごく大切なんです。どれも一生懸命作ったから、思い入れがあるし、かわいいし、成功作と同じように大切にとってあります。(✿´ ꒳ ` )♡゜*+.
ブログの記事も絵もそうで、すごく時間がかかった厄介な記事も、うまく描けなかった絵も、他の記事と同じくらい大切に思っていて、大好きなんです。
人間である私ですら、自分の作ったものを大切に思っているのだから…、きっと神はそれ以上に、ご自分の作った人間を大切に思っておられるだろうと思いました。
神にとっては、私の性格や体のどの部分も、愛しておられるんじゃないかな。私が気にいらない私の部分や、直したい部分までも神は愛していて、更に、そういう部分を変えたいと思う私の考えも愛してくださっているんじゃないかな…
もし神がおられるとしたら、そう思っていらっしゃるのではないか…、そう思うと気持ちが楽になるのでした。いえ、私はほとんど無神論者なのですが…!! (〃´ω`〃)ゞ☆゜*+.
そうなのです、日本にいるときの私は無神論者なのですが、フランスの大聖堂の中では、フランスのオカルト観…フランス風カトリック的に考えて、それで気分が楽になるのでした。
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フランスのオカルト観、フランス風カトリック…、それは表向きはイタリアの(ヴァティカンのカトリックの総本山)ローマ・カトリックと同じということになっていても、フランス特有のノートルダム思想やフランス的個人主義などが混ざったカトリックであり、フランス独特の雰囲気を持っています。
フランスのオカルト観で考えるとき、私は、神は芸術家だと思うのでした。そして私は、神から大切にされている芸術作品の一つです。
私はシャルトル大聖堂の中で、お祈りをしました。日本での私は無神論者だけど、いいのです、ここはフランスだからです。
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「私達の父(=神)よ…、至高の芸術家であり、愛(←カトリック的な意味で)そのものであるあなたは、ご自分のおつくりになった芸術品を愛しておられるはず。ですから私のことも愛しておられ、大切に思っておられるでしょう。何故なら私も、ほかの人間達と同じく、あなたがお作りになった芸術品の一つなのですから…」
ならば、私が私を大切にすること自体が、神への敬意になるのだろう。私は自分の長所も短所も役立てたい。『 自分特有の個性 』を大切にしたい。それは神が私にしか与えなかった特別なものなのだから…
この考え方(フランスのオカルト観)こそが、フランスの個人主義とむすびついており…これこそが、私の「オカルト観」の根本となっているのだと思います。(ㆁᴗㆁ✿) ✿゜*+.
私がお祈りをしている間、ずっと後ろにDの気配がしていました。Dが静かに私を見守ってくれているのを感じました。

そして、日本に帰ってきた途端、私はいつもの私に戻れていたのでした。
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日本の治安の良さや、清潔な道&公共施設を見たり、空調が管理された室内の空気を感じると、日本に帰ってきたんだなあと実感して、嬉しくなるのでした。
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道などの公共施設の清潔さ…それは「他人に迷惑をかけない」=「他人を尊重することである」と考える日本独特の考えかたが作用しているんじゃないかなと思いました。この他者への「思いやり」、これをオカルト観で説明するなら、これは神道的な考え方なんじゃないかなあ。八百万の神々が、それぞれ譲り合って存在し合う、その「調和」を重んじる考え方は、「和の国」と呼ばれる日本独特のものだと思います。(ㆁᴗㆁ✿)♡゜*+.
波風を立てないように、個人がみんな少しずつ我慢することで集団の平和を保とうとする、個人がみんなで集団を尊重する「調和」…、それこそが日本の公共施設の清潔さや、災害時でも列を作って並び、暴動も略奪も起こさないという、日本が世界を感動させた行動につながっており、日本独自の美しさなんじゃないかなあと思いました。(っ〃´ω`〃c)✿゜*+.
やおよろずの全てのものに神が宿っている、だから全てに敬意をはらい、尊重し、大切にする…というのが日本の平等感なのかな?
この日本独自の考え方を、日本人は「オカルト観」とか「宗教観」としてとらえるのではなく、「(日本人としての)マナー」に分類しているのだと思います。だから日本は無宗教である(と日本人は認識している)にもかかわらず治安が良いんじゃないかな?
…というのは、一人のフランス人の目から見た日本のオカルト観(宗教観)への感想に過ぎないのですが…(〃´ω`〃)ゞエヘヘ☆
そんな風に私は、フランス的な考え方になったり、日本的な考え方になったりしましたが…Dは私とは違って、国を行き来することによる精神面での変化は、全く無いようでした。Dは人間じゃなくて、人間の精神を持っていないからだと思います。(人間とは違って何国人とかの分類に属さないから混乱しないんだと思います。)
でも、国を行き来したこの仕事は、私にとって、Dといっそう仲良くなるきっかけになりました。何故なら、Dは私の個性を好んでいるので(詳細は過去記事「記録と儀式」参照)、私が「自分の個性を大切にしたい」という気持ちになったこの旅は、Dにとって良いものだったからです。もちろん私にとっても得ることが多く、とても良いものになりました。
…4年前にDが「フランスに行こう」と言ったとき(詳細は過去記事「約束」参照)、まさか既にDは、こういう良い影響があるとわかっていて、そう言ってくれたのかな…?だとしたら、Dはすごいなあ…!!!! (〃゜ω゜〃;)✿゜*+.
昔フランスで産まれ、今は日本で働いている私は、今回の渡航で、あらゆる面において両国のものが自分の中でミックスされていると自覚しました。考え方も、言動も、心の動きも、体の動きも、血もです。郷に入っては郷に従えの言葉通り、その場所に合わせて変わる(変えざるを得ない)私の部分はあります。でも、どこの国にいても必ず存在する私の部分があって…、私はそれを自分の個性だと思いました。
どこの国に行っても変わらない「個性」だけは、神の国に行くときでさえ、持っていけるものなんじゃないかな…。(✿´ ꒳ ` )✿゜*+.
Dが好んでいる私の個性…、私だけしか持たない特性は、どんなものなんだろう。まだハッキリ見えていないものもあるから、これから生活していく中で、Dと一緒に見つけていきたいと思います。(ㆁᴗㆁ✿)♡゜*+.
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最近見つけた良い曲なのですが、「Santiago de Compostela : Novus annus dies magnus」と検索して、聴いてみてくださいまし…!!とっても綺麗なんです!!!! (*´꒳`*)✿゜*+.
教会と神社の違いとか、神様への敬意の表し方の違いとか、悪霊(?)に対する考え方の違いとか…、カトリックと神道ではだいぶ違うなあと思った部分があるので、それも記事に書いてみたいのですが、この記事とは内容がズレるものなので、それはまた別の記事にしてみますです。∩(〃´ω`〃)∩☆゜*+.
ご閲覧ありがとうございました…!! m(〃_ _〃)m!!