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ボッティチェリとルネサンス フィレンツェの富と美

渋谷のBunkamuraの中にある美術館に行ってきました。
Bunkamuraの正式名称って、文化村じゃなくてBunkamuraなんですね。中の美術館も、文化村美術館じゃなくてThe Museumなんだそうです。へぇ~。

その美術館で、今「ボッティチェリとルネサンス、フィレンツェの富と美」という展覧会をやっているのです。それを見てきました。私、ルネサンス美術やバロック美術が大好きなんです。(詳細は過去記事「写真立て(2)」参照)なので、その美術展について書かせてくださいましm(*_ _*)m

この展覧会は、15世紀のフィレンツェ共和国(現在イタリア北部の都市)において、いかにしてルネサンス美術が栄えたか、その要因から始まりやがて衰退に至るまでを、歴史的・芸術的・美術的観点を複雑に絡めて説明しているという、実に素晴らしい展覧会でした。

ルネサンス芸術の魅力は、歴史と美術の融合だと思います。ただ美しいだけではなく、ただ歴史があるだけでもなく、その二つが両立しているという点が奇跡だと思います。そしてそのような芸術が、まだ壊れずに残っているということがすごいことだと思います。絵画も、彫刻も、建築物も、音楽でも、それらは芸術品ですから、人の心をうたなかったらここまで生き残れなかった・・・ルネサンス芸術やバロック芸術で現存するものは、何百年もの間、ずっと人の心をとらえてきたもの達ということですね・・・


以下は、展覧会の概要です。歴史の流れにそって、展覧会の展示品を紹介していきます。


序章:富の源泉―――フィオリーノ金貨(←この見出しは、展覧会に書いてあった見出しそのままを使わせて頂きますm(*_ _*)m)


古代ローマ帝国の滅亡により、政治的混乱はもとより、蛮族の侵入、都市人口減少、商業活動停滞・・・それらによって、文化的な水準はガンガン下がっていました。当然貨幣(お金)の価値も下がり、やがて貨幣自体が使われなくなってしまいました。

中世後期になり、ジェノヴァ共和国やヴェネツィア共和国で金貨を作ろうとする動きが始まりました。イタリア南部では中世初期から金貨が一部流通していたようですが、後期になると中部や北部でも金貨を作る動きが広まりました。1252年にジェノヴァでジェノヴェーノ金貨が作られた数か月後、フィレンツェで超優秀な金貨、フィオリーノ金貨が作られます。この金貨の存在こそが、ルネサンス美術が栄える要因となり、その中心地がフィレンツェたる所以となったのです。

フィオリーノ金貨の優秀なところは、非常に厳密に作られているところです。24金の3.536gキッチリで作ることで、貨幣価値を安定させました。金貨の表はフィレンツェの紋章である百合、裏は守護聖人洗礼者ヨハネの姿が描かれています。

↓おみやげに買ったフィオリーノ金貨のチョコです。

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↓左側のものが表で、これは百合です。右側のものが裏で、守護聖人洗礼者ヨハネです。

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↓おみやげに買ったラッピングペーパーです。

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↓金貨と同じ、フィレンツェのマークである百合の模様です。

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貨幣が安定しているということは、金融業の安定に繋がります。安定した貨幣フィオリーノ金貨の存在によって、フィレンツェではたちまち金融業が成長し、瞬く間にヨーロッパ経済の最大中心地となりました。大繁盛する金融業と共に、フィレンツェの人々はどんどん富を手に入れることになりました。

展覧会では、本物のフィオリーノ金貨や、偽物の金貨などが展示されていました。フィオリーノ金貨は信用があり価値が高いので、ヨーロッパ中で偽金が作られました。当時まだ未開の地だったフランス(この時代、文化的にはイタリアとフランスは先進国と発展途上国以上の差がありました)のフランス司教すらもフィオリーノ金貨の偽金を作るように命じたという記録が残っています。


第1章:ボッティチェリの時代のフィレンツェ―――繁栄する金融業と商業


フィレンツェとは、ラテン語で「花ざかり」という意味のフロレンティアという言葉が語源になっています。その名の通り、フィレンツェは美しい芸術の都として花開き、長きに渡って栄えることになります。

フィオリーノ金貨によって、銀行業・商業・貸付業を行って富を得たフィレンツェの人々は、生活に困ることが無くなりました。そこで、そのお金を芸術活動に奉仕しました。メセナ活動と呼ばれる芸術庇護活動が始まりました。お金を持っている人が芸術家を保護して、お金を出して作品を作らせてあげるのです。パトロンです。この活動こそがルネサンス芸術(バロックも)にとって重要で、ボッティチェリもこの後、大銀行家であるメディチ家に庇護されるようになることで大きな活動ができるようになります。こうして優れた絵画や宗教画が産まれていきます。

しかし、キリスト教会はこれに良い顔をしませんでした。当時のカトリックは対抗するプロテスタントが大きくなっていないので、まだ芸術に対してそこまで力を入れてなかったのです。バロックの時代になると、カトリックは芸術を保護し、プロテスタントが清貧を提唱して、お互いに対立するのですが、この時代のカトリックはむしろ、美しい芸術作品や金への貪欲さは歓迎されることではなく、清貧こそが大切であると説き、利子を金銭で取ることに関して罰則を設けました。もしかして庶民が裕福になることで教会の権力(神への信仰)が落ちると危惧したのかもしれません。この時代のカトリック教会は、利子とは返済が遅くなる分の時間にかかるお金なので、利子のやりとりとは時間に値段を付けた時間の売り買いであるとして、時間の取引は神にしか許されないものであるとしました。そこで教会は貸付業に対抗して、金で利子を取らず担保を取ることで金を貸し、公益質屋を名乗りました。

1252年にフィオリーノ金貨が初めて作られてから約200年後、1445年にボッティチェリが皮なめし職人の家に産まれました。本名はアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピです。ボッティチェリとはイタリア語で、ボッティ=「樽(たる)」、チェリ=「小さい」という意味です。兄が太っていて大きい樽のようだったから、弟のボッティチェリは小さい樽ということで、そうあだ名が付けられたようです。

最初に展示されているボッティチェリの作品は「ケルビムと伴う聖母子」という絵で、マリアがキリストを抱いた絵です。1470年頃制作ということで、ボッティチェリが公的な仕事を始めたばかりの作品です。ケルビムとは智天使という役職の天使のことで、この絵ではマリアとキリストの周囲をぐるっと取り囲んでジーッと見つめています。無表情で。(*´ 艸`*)


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(゜◇゜) (゜◇゜) (゜◇゜) ジーッ・・・

ケルビムの周囲をさらにグルッと取り囲んでいるのは、赤地に沢山の金色の丸・・・これは、金貨の絵なのです!!しょっぱなから金貨に囲まれる聖母子!!金貨は絵をぐるっと取り囲んでいて、三重になっています。本物は三重にグルッと取り囲んでいるんですが、その金貨全部を描くと見た目が気持ち悪くなるかなあと思ったので、左上だけ三重にしてみました。実際には全部こういう感じに三重です。この赤地に金色の丸(金貨)というのは、商人達の活動を監督した両替商組合のマークです。なので恐らく、この聖母子画は両替商組合がボッティチェリに依頼して描いてもらった絵だと思われます。下にはAVE MARIA GRATIA PLENA(アウェー・マリーア・グラーティア・プレーナ)と全部大文字で書かれています。これはラテン語で「めでたし聖寵(せいちょう)充満てる(みちみてる)マリア」という意味です。キリスト賛美というより聖母マリア賛美が色濃い作品で、正にカトリックという感じです。良いね良いね・・・!!

ここのコーナーでは、当時使われていた為替手形や、貴重品入れや、公益質屋の金庫、鍵なども展示されていました。金融業が栄えていた当時の面影がありありと感じられます。装飾が施されたお洒落なデザインの鍵も置いてありました。Dもアンティークの鍵の束を持っているんですが(詳細は過去記事「ステンドグラス」参照)、Dの鍵よりもずっとゴツくて丈夫そうです。シンプルな南京錠もありましたが、南京錠は力任せで壊そうと思うと壊れたりするので、貴重品保管用の鍵ではなく日用品や食料などを入れる箱の鍵として使っていたようです。

このコーナーでの興味深い作品は「高利貸し」という絵です。金融関係者と思われる裕福な男が、醜悪な顔で金勘定めいたことをしている絵です。イタリア北部ではこのように金融業に携わる人間を醜悪に描く手法が流行しました。しかし、こういった絵を含めたルネサンス芸術は、フィレンツェの金融業の人間がいなくては育ちませんでした。皮肉な結果ですね。


第2章:旅と交易―――拡大する世界


やがてヨーロッパ各地にフィレンツェの銀行の支店が開設され、銀行家や商人は現金の代わりに信用状を持って長旅に出られるようになりました。それにより交易は活発化し、フィレンツェにはヨーロッパだけでなく中東(イスラム圏)からの商人や品物も行きかうようになりました。

ここのコーナーでの展示品は、航海図や、旅の道具や、旅の様子を描いた絵などが展示されていました。遠出の旅は、病気や事故や事件に巻き込まれて命を落とすことも多く、出発前には毎回遺言書を書き商品にも保険をかけるほど危険だったそうです。陸路はラバでの移動になりますが、14世紀にフランスとイギリスが百年戦争などを起こしていたのでその間の陸路は使えず、船もよく使いました。ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアに大きい港がありました。こういった船での交易が航海術を成長させ、やがて15~16世紀の大航海時代の始まりへの布石になりました。

ここのコーナーには、船が沈没しそうになったときに奇跡が起きて聖人に助けられたというテーマの絵もありました。ちなみに聖人は、あのニコラウスです。聖(セント)ニコラウス・・・ええ、サンタクロースの元ネタの人です。海に上にさっそうと出現して、船を助けているサンタクロースの絵でした。商人達は、こういう縁起の良い絵を画家に依頼して、旅の安全を祈願しました。

また「大天使ラファエルとトビアス」という題材が使われた絵が二つありました。一つ目はこちらです。これは旅に出る息子を案じた父を見た大天使ラファエルが、息子トビアスの旅に同行して守ってくれたという逸話です。展示会場には、自分の息子の旅での安全を祈る父親が依頼したという大きな絵がありました。これが以下です。

一番右がトビアス、真ん中でドヤ顔決めてるのがラファエル、一番左がこの絵の注文主の息子です。注文主は、この息子のために絵を依頼しました。


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ラファエルは超ドヤ顔を決めていました。トビアスがぶら下げて持っているのは魔除けの魚です。左下で祈っているのが依頼者の息子です。

しかし残念ながら、この依頼者の息子さんは10代でお亡くなりになってしまったそうです・・・この絵はとても保存状態が良くて綺麗でした。きっとお父さんが息子の死後も絵を大切にしていて、その後でこの絵を守ってきた人々も、皆大切にしてくれたんだね・・・

そして二つ目がこちらです。ただこの作品、題名は「ラファエルとトビアス」じゃなくて「受胎告知」なんです。
キリスト教の宗教画には、よく描かれるテーマというのがありまして、聖書の中にワンシーンだったり、伝説だったりするのですが、その中に「受胎告知」というテーマがあります。「受胎告知」とは、マリアが大天使ガブリエルからキリスト懐妊を告げられるシーンです。この「受胎告知」の絵の背後に、すごい小さくラファエルとトビアスがいるという絵が展示されていました。
「受胎告知」がメインで、ちょこっとおまけにラファエルとトビアスを付けとくか・・・という感じみたいですね。ちなみにこの絵、個人所有でした。こんな面白珍しい絵を持っていたら、そりゃ博物館が相手でも手放さないよね!!
その絵が以下です。

一番右がマリア、真ん中がガブリエル、そして左にすごく小さく見える二人組が・・・小さいほうの人間は魚を持っているし、大きいほうは羽が生えているみたい・・・こ、このコンビは!!ラファエルとトビアスなの!?という感じに見た人を驚かせる絵です。


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ラファエル、ガブリエル、ミカエルは芸術作品を取り扱う上で重要な大天使3人です。見分け方は簡単です。キリスト教美術にはアトリビュートというものがあって、これは絵に描かれている人物が誰なのか、その持ち物や服でわかるようにした、いわば人物特定のヒントです。

ラファエル=魚を持ったトビアスと一緒にいる、羽は生えているけど人間の旅人の服を着ている、手の上に薬が入った容器を持っている
ガブリエル=「受胎告知」のシーンにいる、聖母マリアのアトリビュートの一つであるユリを片手に持っている、女性的な外見で綺麗な服を着ている
ミカエル=ドラゴンを踏みつけていたり、悪魔を踏みつけていたり、剣を持っていたり、鎧を着ていたりする

キリスト教美術の天使はこの3人さえ覚えておけば、あとの天使は90%以上がにぎやかしのモブなので、他の天使達のことは覚えなくて大丈夫です。美術品の解釈上、他の天使は覚えなくても問題ありません。

他に興味深い作品としては、「サラディンとトレッロ・ディ・ストラの物語」をテーマに描いた絵がありました。これは、イスラム教徒にキリスト教徒が助けられる物語です。この時代は異教徒同士でも商業でお互い持ちつ持たれつ助け合っていて、お互いの国の珍しいものや便利なものをやり取りしようという方向性だったようです。割と平和で商売らしい取引をしていたということですね。海賊を使って国家ぐるみで外国の商船を襲って不法な強奪ばかりしていたイギリス以外は・・・(;´▽`A(汗)


第3章 富めるフィレンツェ


13世紀以降、ヨーロッパではたびたび贅沢禁止令が出ており、裕福になった都市フィレンツェも同様でした。規制は服装や装飾品だけでなく、婚礼・葬式・洗礼式にも及び、式で使うろうそくの数や大きさまで決められていたそうです。

しかし、お洒落好きなフィレンツェの人々はめげませんでした。豪華なボタンが禁止だと言われれば「これはボタン穴が開いてないからボタンじゃないですよ」と言い訳をするなどして、なんとか美しい服を着ようとしました。そのため「ボタン穴の無いボタンもボタンである」等と禁止品要綱に加えねばならないなど、禁止品要綱は毎日加筆や修正をしなくてはいけないほどでした。それでも追い付かないので、とうとう職業に応じては罰金を払えば華美な格好をしてもOKということにしました。冨と美を求めるフィレンツェの人々の前では贅沢禁止令すら屈服したのです。

このコーナーには「聖母マリアの婚礼」と「聖母マリアの葬儀」という2枚1対の絵がありました。「聖母マリアの婚礼」においては、花嫁姿のマリアが贅沢禁止令に従ったシンプルな格好であるのに対し、「聖母マリアの葬儀」においては、葬儀の様子がとても豪華です。この2枚は制作年代も同じなのですが、依頼主からそういう注文を受けて描いたのかな?

謎な作品は、「バーリの聖ニコラウス伝」で、尋ねてきた悪魔に親切心でパンをあげた子供が死んでしまったという絵だという説明がありました。・・・聖ニコラウスは何をしてたんだ?聖ニコラウスは子供を守る聖人でもあるはずなんだけどなあ。私は、悪魔にパンをあげた子供が死んでしまったというエピソードは聞いたこと無いので、この絵はちょっと詳細不明です・・・


第4章 フィレンツェにおける愛と結婚


フィレンツェにおいて、結婚や出産は重要なものでした。結婚は家同士の繋がりにもなるので、家の財産を増やしたり減らしたりする大きなイベントでした。妊娠のほうは、新しい命や後継者が産まれるイベントであると共に、女性にとっては妊娠や出産による死の危険と常に隣り合わせの大きなイベントでした。当時は医学も発達していなかったので、女性は妊娠中に何度も遺言書を書かなくてはいけないほど、出産は危険なイベントでした。

このコーナーでは、綺麗に装飾された出産盆も展示されていました。出産盆とは、出産を終えた女性がベッドの上で食事を摂れるように作られたもので、表と裏に装飾が施された贅沢なものです。そのため、使われないときは装飾がより綺麗な面を表にして壁等に飾っていました。

結婚に伴う女性への贈り物は、実用品というよりは高価な装飾品であることも多く、一度も使われていないという細かい装飾の櫛も展示されていました。

衣服を入れる婚礼用長持(カッソーネ)も展示されていました。聖書の中の、スザンナの物語の絵が描かれていました。横長で、巻物みたいな感じに、右方向に3シーンを続けて描いているので、1シーンごとに登場するスザンナは、合計3人描かれています。スザンナは貞淑な女性の象徴なので、衣服を入れる長持の題材によく描かれたようです。展示品の長持の絵を描いたのはスケッジャという人ですが、この人はよく長持に絵を描きました。だから長持の題材によく使われたスザンナの絵は描き慣れていたと思います。


第5章 銀行家と芸術家


ルネサンス期のフィレンツェの名作は、メディチ家をはじめとする銀行家の注文によって制作されました。この5章のコーナーがボッティチェリの作品が一番多く、また最盛期の頃の作品です。

もう、美しいと感じる作品ばかりで、これは考えながら見るよりも、見て心を奪われるだけで良いコーナーだと思います。

マリアの座っている椅子に、7つの丸によって構成されたメディチ家の紋章が描かれている絵がありました。間違い無くメディチ家の注文によって描かれたものです。金を贅沢に使って、でも下品にならないように上品にあしらっていて、一目見て特別な絵だということがわかるつくりです。周囲に同じ大きさの絵が沢山ありますが、絵の雰囲気やオーラが全然違うので、皆が目を奪われてこの絵の前で足を止めていました。私も見入りました。

聖母マリアと一緒に百合と薔薇が描かれている絵もありました。百合と薔薇とは、聖母マリアの象徴です。この絵も素晴らしかったです。

ボッティチェリはヴェロッキオの工房に出入りしていましたが、その影響を受けた作品も展示されていました。「聖母子と二人の天使、洗礼者ヨハネ」という絵では、イエスのポーズがヴェロッキオからの影響を受けています。また「聖母子と二人の天使」という絵では、ずんぐりしたマリアの体型にヴェロッキオの彫刻からの影響が窺えます。

今回展示されている作品の中で一番大きい壁画もこのコーナーにあります。前述しました「受胎告知」のシーンで、ガブリエルがマリアに、マリアがキリストを妊娠したことを告げているシーンです。
でもこの絵は普通の「受胎告知」とは全然雰囲気が違うのです。遠目から見ても悲しい気持ちになって、そのことに驚いて(「受胎告知」の絵でこんなに悲しい気持ちがわいてくる作品は無いので驚くのです)、絵に近づいてガブリエルの表情を見ると、涙が出てきそうな悲しい気持ちになります。
「受胎告知」のシーンはイエス懐妊ということで、まあ一般的にはめでたいシーンなので、お祝いムードだったり明るく賑やかな雰囲気に描かれることが多いのですが、この絵はとても地味で静かです。マリアは目を伏せて悲しみに耐えているかのようで、ガブリエルはそんなマリアを憐れんでいるかのような悲しそうな表情で眉を寄せています。
でもこの壁画はこれで良いのです。これは当時流行した伝染病の隔離病棟に贈られた絵で、その壁を飾っていた絵なのです。こういう雰囲気だからこそ、きっと患者達はこの絵を見て、神から与えられた過酷な運命を受け入れながら精一杯生きようとするマリアに、自分を重ねることができたと思います。ガブリエルの表情は、当時の伝染病に苦しみ亡くなる運命の患者達に向けられたボッティチェリの思いが込められているかのようです。

このコーナーには、ロレンツォ・デ・メディチが自分の娘ルクレツィアに送った若い貴婦人の大理石浮彫もありました。これがまた素晴らしい出来で、浮彫なのに彫刻みたいで、すごく立体感があるのです。この貴婦人はルクレツィアをモデルにして作られたと言われています。


第6章 メディチ家の凋落とボッティチェリの変容


15世紀、ヴィーナス(アフロディーテ)等の、神話に関するモチーフも多く描かれました。その立役者がメディチ家とボッティチェリです。
ボッティチェリは、メディチ家当主であるロレンツォ・デ・メディチに庇護されて、沢山の素晴らしい作品を残しました。ロレンツォとボッティチェリはとても仲が良かったらしく、よく一緒にいたずらをしたり、ふざけたりしていたそうです。(このとき、二人はもういい大人のはずですが・・・)ロレンツォはボッティチェリについて「大食らいのボッティチェリ、ハエよりもあつかましく意地汚い」というふざけた冗談めいた詩を残しています。ボッティチェリも冗談が好きで、自分の弟子のヴァザーリが描いた売り物(注文品)の絵にいたずら書きをして(!!)注文主まで巻き込んだドッキリをかましたりしていたそうです。

メディチ家が最盛期だった時代、コジモ・デ・メディチの時代にはフィレンツェの税金の65%を収めて「国父」の称号を得たり、都市の重要な建築物を建てたりしたメディチ家でしたが、ロレンツォの時代には衰退してきました。もうフィレンツェ共和国のために大きな建築物をつくる余裕は無く、ロレンツォは絵画や工芸品や写本なんかを注文するので精一杯だったようです。そのようにメディチ家は衰退しましたが、フィレンツェはロレンツォの時代に最盛期を迎えます。フィレンツェが栄えたのは、外交などにおいてロレンツォの手腕が大きく影響た結果だと言われます。仲良く楽しくやってきたロレンツォとボッティチェリでしたが、ロレンツォはメディチ家持病の痛風に苦しみ、43歳の若さで亡くなってしまいます。

ロレンツォが亡くなったとき、イザークが曲を作り、ポリツィアーノが詩を書くことで、哀悼の歌を作りました。「誰がこの両目を涙の泉に」という歌です。歌詞は「誰がこの両目を涙の泉にしてしまったのでしょう。私は夜に泣き、昼のさなかにも泣いています」というものです。

ロレンツォが亡くなると、今までメディチ家が庇護していた者達は即座に手のひらを返し、フィレンツェに侵攻してきたフランス軍にうまく対処できなかったこともあって、ロレンツォの息子ピエロはフィレンツェを追放され、それと同時にボッティチェリもパトロンを失ってしまうのでした。

このとき侵攻してきたフランスはやがて勝ち、イタリアに入ってきたフランス国王フランソワ1世がイタリアの芸術に心を打たれ、フランス国内にイタリア人の芸術家を呼んで保護し、フォンテーヌブロー宮殿で芸術の研究を始めることになります。このときフランソワ1世に呼ばれてフランスで活躍した芸術家の一人がレオナルド・ダ・ヴィンチです。そして、このフランソワ1世の息子、アンリ2世のところに輿入れしたのが、カテリーナ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ(カトリーヌ・ド・メディシス)になります。

ロレンツォを失ったフィレンツェは混乱し、やがて修道士サヴォナローラが政治顧問に台頭すると、神権政治が始まりました。サヴォナローラはメディチ家ゆかりのサン・マルコ修道院の修道士で、ロレンツォが生きていた時代からメディチ家を非難していました。ルネサンス芸術は、サヴォナローラによって多大な被害を受けることになりました。サヴォナローラは清貧と質素を重んじるあまり、芸術品や贅沢品をただ禁じるだけではなくて、既存の贅沢品や芸術品までもを集めて燃やしてしまうという行動に出ました。この活動は「虚栄の焼却」と呼ばれました。

ボッティチェリもこの世相の流れに従わざるを得ず、作品の雰囲気をガラッと変えました。色は地味で素材もポーズも表情も単一化してきます。今回の展覧会では、その時期にボッティチェリが描いた聖母子像をさんざんに酷評していました。イエスは頭と体のバランスが取れておらず、腰が歪んでおり、聖母の顔は死んだかのように表情が無い、という説明がありました。この説明を作ったのはイタリアのかたなのかな?もともとボッティチェリの絵はリアル描写からは遠く、イラストとか漫画みたいにデフォルメされて描かれるので、今更人物の体のデッサンの歪みがとか言われても、うーん?最初からそういう画風なんじゃ?って気がしますけど、たしかに絵のオーラとか圧倒感が全っ然無くなってしまっています。やはり、メディチ家に依頼されて描いていた頃の絵とは全然違います。

「虚栄の焼却」で芸術作品を何でもかんでもどんどん燃やして失わせたサヴォナローラは、その過激な性格や、強引なやり方が市民からの反感を買い、教皇とも対立し、拷問を受けて絞首刑にされた後に火刑にされました。奇しくも自分が「虚栄の焼却」で芸術品を集めて燃やしたシニョリーア広場にて、自分も燃やされてしまうことになったのです。

ここのコーナーでは、メディチ家とパッツィ家の家の紋章などが展示されています。

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上の三つがメディチ家のマークの中で、今回の展覧会の中に展示されているものです。一番左は7つの丸で、これは金貨とも丸薬とも言われています。真ん中はダイヤの指輪に羽二本、一番右がダイヤの指輪に羽三本です。下にあるマークはパッツィ家のマークです。

パッツィ家とはフィレンツェの古くからの名門貴族で、メディチ家の暗殺を企んだ一族です。(メディチ家は新しい成り上がり貴族でした)そのメディチ家襲撃計画とは、「パッツィ家の陰謀」と呼ばれる事件です。「パッツィ家の陰謀」とは、1478年4月26日に、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂でのミサ中に行われた襲撃事件で、ピサの大司教であるサルヴィアーティとフランチェスコ・デ・パッツィ達が、ロレンツォ・デ・メディチとその弟ジュリアーノ・デ・メディチを殺そうと襲いました。ロレンツォは怪我をしながらも、教会の備品が収納されている部屋に逃げ込んで助かりますが、弟のジュリアーノは殺されてしまいました。遺体には深い刺し傷が19か所もあったと言われます。ロレンツォ殺害を失敗したパッツィ家や事件に関わったと思われる者は、首謀者をはじめ記録に残っているだけで80名以上、記録されていない者も含めておよそ100人以上も処刑されたと思われます。主犯・フランチェスコ・デ・パッツィ、共謀者サルヴィアーティ大司教、パッツィ家当主ヤーコボ・デ・パッツィは当日のうちに絞首刑にされ、その遺体は数日間さらされたままでした。

パッツィ家に関しては私の大大大好きな映画、リドリー・スコット監督の「ハンニバル」にも少し出てきます!!

この事件に関しては「メディチ家の呪い」などの怖い話や、様々な伝説として、後世そして現代にも語り継がれています。ロマンがありますね~(*´ ▽`*) ほああ!!


展覧会の流れはこのような感じでした。第5章のコーナーのボッティチェリの作品は圧巻です。ボッティチェリの作品は、写真で見ると立体感が無く色もぼんやりとした感じに感じられますが、実物は実に迫力があってとっても良かったです!!

今回の美術展も、とても楽しめました。惜しむらくは会場が冷房効きすぎで寒すぎたことです。みんな寒い寒いと言いながら見ていて、私なんか途中からもうすっかり冷え切ってしまって、落ち着いて閲覧することが出来ませんでした。((( >ω<;)))ブルブル・・・ちょうど重要な5章辺りから既にゆっくり見てこれなかったので、もう一度見に行こうかなあとか思っています。

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