Dの絵(58)
Dは、人間の精神(感情・思考回路)を持っていません。人間とは違った感情や思考回路に基づく精霊の精神を持っています(詳細は過去記事「ごめんね」参照)。
今回の記事では、人間の精神を持たないDの性質について書かせてくださいm(*_ _*)m
人間の精神を持っていないDは、人間の感情に鈍感で、そのため、最初の頃はよく私を驚かせるような考え方をすることがありました。
例えば、あるとき職場で同僚のかなり大きなミスが発覚し、そのため同僚は担当している仕事の任を解かれ、その分の仕事が私にまわってきたことがあります。業界が動くほどの大きなミスでした。その同僚はそう親しい相手ではありませんでしたが、「彼は運が悪くて気の毒だったな・・・」と思い、ミスは誰でも起こす可能性があるものなので明日は我が身とも思い、自分は気を付けようと気を引き締めました。シビアで緊張した気持ちになったのです。
ところが、Dは私とは全然違う考え方をしていました。同僚の件を耳に入れ、慎重に仕事をしなくてはと緊張している私とは対照的に、Dにはとても余裕がありました。とても平静で、全く普段通りだったのです。
私がDに、この同僚の話題をふると、Dは全くいつも通りの落ち着いた表情と口調で、驚くような内容を言ったのです。「うまくいって良かったよ。儲かる仕事が君のところに回ってきたね」と、そう平然と言ったのです。そこには、同僚に対して気の毒に思う憐憫の感情も無く、ミスに対する恐怖の感情もありませんでした。ただただ合理的に「契約者であるさゆに儲かる仕事がまわってきた=良かった」という事実しかありませんでした。
私はとても驚いて、何と言えばいいのか迷ったことを覚えています。


言葉につまった私を見て、このときはまだ私の人間の感情を推測できなかったDは、不思議そうに首をかしげていました。
この、人間の精神を持たないという特性は、私にとって良いことを沢山もたらしてくれます。
例えば、Dは人間の持つ「人間の感情」に流されることがありません。人間の感情に流されて我を失ったり、怒りに身を任せたり、悲しみに沈んだり、気分の高揚のせいで判断力を鈍らせるということがありません。また、それと同時に、周囲の人間の感情から影響を受けたり、周囲の人間の感情に流されるということもありません。このことで私は、元彼の件でDに非常に助けられました(詳細は過去記事「白い百合」参照)。
また、人間の精神を持たないということで、Dはいつも平静で落ち着いており感情的になることがないので、私がいくら精神的に不安定になっても、Dはいつも通り落ち着いたままで私を合理的かつ理論的に窘めてくれるのです(詳細は過去記事「めそめそ」「Dの絵(53)」「暴走(私の)」参照)。
このようにDが周囲の人間からの影響を全く受けず、契約者である私の感情からも影響を全く受けないというのは、この「人間の精神」を持たないという特性が関係しているのだと考えています。
そう考えると、人間との関わりにおいては感情を動かさないDが、他の精霊との関わりにおいては強い感情を見せるのも納得がいきます。Dは、他の精霊との接触で非常に強い怒りを顕著にしたことがあります(詳細は過去記事「お風呂」参照)。これも、Dが持っているのは人間の精神ではなく精霊の精神であるため、同じ精霊の精神はDにも実感として理解できるから、人間相手には感情を動かさなくても精霊相手には感情を動かしたと考えれば筋が通るのではないかなと思っています。
Dが人間の精神を持たない、ということに非常に助けられている私ですが、Dが人間の精神を持たないことについて、昔は心配に思うこともありました。
Dは人間の精神を持っていないため、思わず笑ってしまうような映画などを見ても顔色一つ変えませんし(詳細は過去記事「休日」「精神」参照)、感動するような映画を見ても、涙を誘う映画を見ても、表情を変えることがありません。普段の平然とした態度のままです。そして映画だけでなく、勿論現実においても同じなのです。それ故に、契約者である私以外の他者に対する共感・同情・憐憫・思慕・好意といった感情が働くことがありません。
そのことを心配に思う出来事がいくつかありました。
例えば過去記事「メメント・モリ」では、死んでしまったカラスに対して、「生きている間ばかりか死んだ後もさゆに迷惑を掛けるなんて、まったく悪いカラスだね」という、カラスに対する憐憫の気持ちの欠片もない、契約者である私のことしか考えていない発言をしました。Dにしてみれば、カラスの死体処理を管理業者に依頼するために私が電話しなくてはいけなくなり、私に余計な時間と手間がかかったことが不服だったのでしょう。
私は、それが、あまりにも冷たいように思えて、Dに「かわいそう」という感情を教えようとしたことがあります。
「かわいそう」という感情はわかってないとまずいのではと・・・「うれしい」「たのしい」「かなしい」「おこる」「あきれる」「あきる」・・・他の人間の感情はわからなくても、せめて「かわいそう」という感情だけは教えてあげたほうが良いのではないかと思ったのです。



しかし、このときDが理解したことは、シチュエーションに応じてこの言葉を言うことを覚えただけなのであって、感情が動いているわけではありませんでした。

実際にDに「かわいそう」という感情を教えようとしてみてわかったことですが・・・Dに人間の精神を、特に感情を教える必要は無いのだと、このときハッキリ実感しました。
Dは「他者が苦しんでいるときには『かわいそう』と言わないと、契約者(さゆ)を不安にさせてしまう。こういった状況のときは『かわいそう』と言えば契約者(さゆ)は安心するようだ。だから状況に応じて『かわいそう』と言おう」という合理的な判断に従って、機械的に「かわいそう」と言っただけなのです。感情は動かないので、他者に対する憐憫の気持ちから言ったのではなく、ただ私のために言ってくれたのです。
そのことをわかってからは、私はDに「人間の精神(人間の感情や思考回路)」を押し付けることをやめました。私は、「Dは人間の精神をわからなくても良いのだ」と結論付けたのです。何故ならDは精霊だからです。Dが接触する人間は私だけだから、私さえ良ければそれでいいのです。
そして、そう思うのと同時に、Dを他者と直接接触させることは避けなくてはいけないとも思いました。「かわいそう」を始めとした感情の共感は、人間同士の「人間関係」において非常に重要なものです。これを完全に無視しているDを他者と接触させるのはまずいのではないかと思ったのです。
かくして、私はDに、「人間の精神を身に着けなくていいよ」と言いました。
でもDは、私のために「人間の精神」を身に着けようと思ってくれて(詳細は過去記事「ごめんね」参照)、人間(私)の感情を常に観察しました。
Dは、実感として人間の感情を感じることは非常に苦手なようで、不確かにしか感じられません(詳細は過去記事「ごめんね」参照)。
しかし、Dは頭が良いので、私の表情や声色や言動を観察して、どんな状況のときに私がどのような反応を見せるかを分類・分析し、パターンを作って当てはめてみることで私の感情を推察できるようになりました(詳細は過去記事「Dの絵(35)」参照)。
この方法によりDは、感情を実感として感じることは出来なくても、合理的に推測することで相手の感情を推し量れるようになりました。
そんな風に暮らしてきまして・・・そして、今年の夏の終わりのことです。
涼しい秋風が吹き始め、温かい日の光にも陰りが見え始めた晩夏、マンションに帰ってくると、自分の部屋の玄関の前に小さい何かが落ちていることに気付きました。緑色で光っています。カナブンでした。今住んでいる部屋はカナブンが飛んでくるには難しい高さなので、どうやってそこまで来たのかは不明なのですが・・・エレベーターで運ばれてきたのか、誰かの衣服にでもついてきたのかもしれません。
カナブンは弱っていて、飛ぶことはおろか、歩くことも難しいようです。私はカナブンを拾って、夏に友達とバーベキューしたときに余ったペーパープレートの中に入れました。カナブンは満足に歩くことすらできないので、プレートにふたをする必要はありませんでした。
食べ物をあげなくてはいけないと思い、果汁100パーセントのジュースを買いにいくことにしました。私は偏頭痛がある(詳細は記事カテゴリ「偏頭痛」内の記事参照)ので甘いものを滅多に食べず、特に血管が一気に開く果汁ジュースのような飲食物はつきあいでくらいしか飲みません。なので、急いでスーパーに買いに行きました。


Dは普段、会社など私が人のいる場所にいるときは、私の影の中に入っています(詳細は過去記事「タルパー」参照)。このときも影の中に入っていたDですが、私がスーパーでぶどうジュースを手にとったとき、影の中から出てきて背後に立ちました。私の背後がDの定位置なのです(詳細は過去記事「Dの絵(2)」「Dの絵(5)」参照)。



Dにとっては、カナブンの命より契約者(さゆ)の財産のほうが大切なのです。他者の命よりも契約者(さゆ)の財産のほうが大切というDの思考は、過去記事「金」内にも見られ、そのときDは伯母さんの命よりも契約者(さゆ)の財産のほうが大切であるかのようなことまで言いました。
私はぶどうジュースを買い、ジュースをティッシュに含ませてカナブンの傍に置きました。




ぶどうジュースを含ませたティッシュを傍に置くと、カナブンは甘い香りに引き寄せられたのか、よろよろとティッシュに近づきました。よーく見ると、カナブンの顔が小さく動いて、いっしょうけんめいティッシュを舐めているのが見えました。私は嬉しくなりました。これで少なくとも餓死は免れるからです。
ティッシュが渇いてはいけないと思い、ペットボトルのふたを使うことにしました。ふたの中にジュースを入れ、小さく切ったティッシュのはしを入れ、もうかたほうのはしを外に出しておくことにしました。これで、毛細管現象によって常にティッシュがジュースで満たされるはずです。
そして朝、カナブンに行ってくるねと声を掛けてから部屋を出ました。25度設定でエアコンもつけておくことにしました。夏の虫は寒さに弱いのです。
会社から帰って来た後は、急いでカナブンを見に行きました。でも・・・




カナブンは死んでしまっていました。ティッシュに顔を寄せたまま動かなくなっていました。
Dの言った通り、2日間ともたずに死んでしまったのです。

Dは、「さゆを悲しませるなんて悪い虫だね」と言いました。カラスのとき(詳細は過去記事「メメント・モリ」参照)と同じような、「悪い○○だね」という言葉です。
でも、その直後・・・



Dが、カナブンの気持ちを自分の苦手な「人間の精神」になぞらえて推測して、私を慰めてくれたのです。
今でもDは人間の精神を実感として理解するのは苦手で、契約者(さゆ)以外の対象に関しては、それが物であっても動物であっても人間であっても「契約者(さゆ)にとって利益の有無・害の有無」という合理的な判断のみで見ています。
でも、人間の精神は持たなくても、Dは精霊の精神の中の、精霊の感情の1つである「好き」という感情(詳細は過去記事「特別」参照)を私に向けてくれていて、その精霊の「好き」は私にとって、人間の「好き」に勝るとも劣らない素敵なものだなあと思うのでした。
本当にありがとうね、D・・・

御閲覧ありがとうございました!!m(*_ _*)m!!
今回の記事では、人間の精神を持たないDの性質について書かせてくださいm(*_ _*)m
人間の精神を持っていないDは、人間の感情に鈍感で、そのため、最初の頃はよく私を驚かせるような考え方をすることがありました。
例えば、あるとき職場で同僚のかなり大きなミスが発覚し、そのため同僚は担当している仕事の任を解かれ、その分の仕事が私にまわってきたことがあります。業界が動くほどの大きなミスでした。その同僚はそう親しい相手ではありませんでしたが、「彼は運が悪くて気の毒だったな・・・」と思い、ミスは誰でも起こす可能性があるものなので明日は我が身とも思い、自分は気を付けようと気を引き締めました。シビアで緊張した気持ちになったのです。
ところが、Dは私とは全然違う考え方をしていました。同僚の件を耳に入れ、慎重に仕事をしなくてはと緊張している私とは対照的に、Dにはとても余裕がありました。とても平静で、全く普段通りだったのです。
私がDに、この同僚の話題をふると、Dは全くいつも通りの落ち着いた表情と口調で、驚くような内容を言ったのです。「うまくいって良かったよ。儲かる仕事が君のところに回ってきたね」と、そう平然と言ったのです。そこには、同僚に対して気の毒に思う憐憫の感情も無く、ミスに対する恐怖の感情もありませんでした。ただただ合理的に「契約者であるさゆに儲かる仕事がまわってきた=良かった」という事実しかありませんでした。
私はとても驚いて、何と言えばいいのか迷ったことを覚えています。


言葉につまった私を見て、このときはまだ私の人間の感情を推測できなかったDは、不思議そうに首をかしげていました。
この、人間の精神を持たないという特性は、私にとって良いことを沢山もたらしてくれます。
例えば、Dは人間の持つ「人間の感情」に流されることがありません。人間の感情に流されて我を失ったり、怒りに身を任せたり、悲しみに沈んだり、気分の高揚のせいで判断力を鈍らせるということがありません。また、それと同時に、周囲の人間の感情から影響を受けたり、周囲の人間の感情に流されるということもありません。このことで私は、元彼の件でDに非常に助けられました(詳細は過去記事「白い百合」参照)。
また、人間の精神を持たないということで、Dはいつも平静で落ち着いており感情的になることがないので、私がいくら精神的に不安定になっても、Dはいつも通り落ち着いたままで私を合理的かつ理論的に窘めてくれるのです(詳細は過去記事「めそめそ」「Dの絵(53)」「暴走(私の)」参照)。
このようにDが周囲の人間からの影響を全く受けず、契約者である私の感情からも影響を全く受けないというのは、この「人間の精神」を持たないという特性が関係しているのだと考えています。
そう考えると、人間との関わりにおいては感情を動かさないDが、他の精霊との関わりにおいては強い感情を見せるのも納得がいきます。Dは、他の精霊との接触で非常に強い怒りを顕著にしたことがあります(詳細は過去記事「お風呂」参照)。これも、Dが持っているのは人間の精神ではなく精霊の精神であるため、同じ精霊の精神はDにも実感として理解できるから、人間相手には感情を動かさなくても精霊相手には感情を動かしたと考えれば筋が通るのではないかなと思っています。
Dが人間の精神を持たない、ということに非常に助けられている私ですが、Dが人間の精神を持たないことについて、昔は心配に思うこともありました。
Dは人間の精神を持っていないため、思わず笑ってしまうような映画などを見ても顔色一つ変えませんし(詳細は過去記事「休日」「精神」参照)、感動するような映画を見ても、涙を誘う映画を見ても、表情を変えることがありません。普段の平然とした態度のままです。そして映画だけでなく、勿論現実においても同じなのです。それ故に、契約者である私以外の他者に対する共感・同情・憐憫・思慕・好意といった感情が働くことがありません。
そのことを心配に思う出来事がいくつかありました。
例えば過去記事「メメント・モリ」では、死んでしまったカラスに対して、「生きている間ばかりか死んだ後もさゆに迷惑を掛けるなんて、まったく悪いカラスだね」という、カラスに対する憐憫の気持ちの欠片もない、契約者である私のことしか考えていない発言をしました。Dにしてみれば、カラスの死体処理を管理業者に依頼するために私が電話しなくてはいけなくなり、私に余計な時間と手間がかかったことが不服だったのでしょう。
私は、それが、あまりにも冷たいように思えて、Dに「かわいそう」という感情を教えようとしたことがあります。
「かわいそう」という感情はわかってないとまずいのではと・・・「うれしい」「たのしい」「かなしい」「おこる」「あきれる」「あきる」・・・他の人間の感情はわからなくても、せめて「かわいそう」という感情だけは教えてあげたほうが良いのではないかと思ったのです。



しかし、このときDが理解したことは、シチュエーションに応じてこの言葉を言うことを覚えただけなのであって、感情が動いているわけではありませんでした。

実際にDに「かわいそう」という感情を教えようとしてみてわかったことですが・・・Dに人間の精神を、特に感情を教える必要は無いのだと、このときハッキリ実感しました。
Dは「他者が苦しんでいるときには『かわいそう』と言わないと、契約者(さゆ)を不安にさせてしまう。こういった状況のときは『かわいそう』と言えば契約者(さゆ)は安心するようだ。だから状況に応じて『かわいそう』と言おう」という合理的な判断に従って、機械的に「かわいそう」と言っただけなのです。感情は動かないので、他者に対する憐憫の気持ちから言ったのではなく、ただ私のために言ってくれたのです。
そのことをわかってからは、私はDに「人間の精神(人間の感情や思考回路)」を押し付けることをやめました。私は、「Dは人間の精神をわからなくても良いのだ」と結論付けたのです。何故ならDは精霊だからです。Dが接触する人間は私だけだから、私さえ良ければそれでいいのです。
そして、そう思うのと同時に、Dを他者と直接接触させることは避けなくてはいけないとも思いました。「かわいそう」を始めとした感情の共感は、人間同士の「人間関係」において非常に重要なものです。これを完全に無視しているDを他者と接触させるのはまずいのではないかと思ったのです。
かくして、私はDに、「人間の精神を身に着けなくていいよ」と言いました。
でもDは、私のために「人間の精神」を身に着けようと思ってくれて(詳細は過去記事「ごめんね」参照)、人間(私)の感情を常に観察しました。
Dは、実感として人間の感情を感じることは非常に苦手なようで、不確かにしか感じられません(詳細は過去記事「ごめんね」参照)。
しかし、Dは頭が良いので、私の表情や声色や言動を観察して、どんな状況のときに私がどのような反応を見せるかを分類・分析し、パターンを作って当てはめてみることで私の感情を推察できるようになりました(詳細は過去記事「Dの絵(35)」参照)。
この方法によりDは、感情を実感として感じることは出来なくても、合理的に推測することで相手の感情を推し量れるようになりました。
そんな風に暮らしてきまして・・・そして、今年の夏の終わりのことです。
涼しい秋風が吹き始め、温かい日の光にも陰りが見え始めた晩夏、マンションに帰ってくると、自分の部屋の玄関の前に小さい何かが落ちていることに気付きました。緑色で光っています。カナブンでした。今住んでいる部屋はカナブンが飛んでくるには難しい高さなので、どうやってそこまで来たのかは不明なのですが・・・エレベーターで運ばれてきたのか、誰かの衣服にでもついてきたのかもしれません。
カナブンは弱っていて、飛ぶことはおろか、歩くことも難しいようです。私はカナブンを拾って、夏に友達とバーベキューしたときに余ったペーパープレートの中に入れました。カナブンは満足に歩くことすらできないので、プレートにふたをする必要はありませんでした。
食べ物をあげなくてはいけないと思い、果汁100パーセントのジュースを買いにいくことにしました。私は偏頭痛がある(詳細は記事カテゴリ「偏頭痛」内の記事参照)ので甘いものを滅多に食べず、特に血管が一気に開く果汁ジュースのような飲食物はつきあいでくらいしか飲みません。なので、急いでスーパーに買いに行きました。


Dは普段、会社など私が人のいる場所にいるときは、私の影の中に入っています(詳細は過去記事「タルパー」参照)。このときも影の中に入っていたDですが、私がスーパーでぶどうジュースを手にとったとき、影の中から出てきて背後に立ちました。私の背後がDの定位置なのです(詳細は過去記事「Dの絵(2)」「Dの絵(5)」参照)。



Dにとっては、カナブンの命より契約者(さゆ)の財産のほうが大切なのです。他者の命よりも契約者(さゆ)の財産のほうが大切というDの思考は、過去記事「金」内にも見られ、そのときDは伯母さんの命よりも契約者(さゆ)の財産のほうが大切であるかのようなことまで言いました。
私はぶどうジュースを買い、ジュースをティッシュに含ませてカナブンの傍に置きました。




ぶどうジュースを含ませたティッシュを傍に置くと、カナブンは甘い香りに引き寄せられたのか、よろよろとティッシュに近づきました。よーく見ると、カナブンの顔が小さく動いて、いっしょうけんめいティッシュを舐めているのが見えました。私は嬉しくなりました。これで少なくとも餓死は免れるからです。
ティッシュが渇いてはいけないと思い、ペットボトルのふたを使うことにしました。ふたの中にジュースを入れ、小さく切ったティッシュのはしを入れ、もうかたほうのはしを外に出しておくことにしました。これで、毛細管現象によって常にティッシュがジュースで満たされるはずです。
そして朝、カナブンに行ってくるねと声を掛けてから部屋を出ました。25度設定でエアコンもつけておくことにしました。夏の虫は寒さに弱いのです。
会社から帰って来た後は、急いでカナブンを見に行きました。でも・・・




カナブンは死んでしまっていました。ティッシュに顔を寄せたまま動かなくなっていました。
Dの言った通り、2日間ともたずに死んでしまったのです。

Dは、「さゆを悲しませるなんて悪い虫だね」と言いました。カラスのとき(詳細は過去記事「メメント・モリ」参照)と同じような、「悪い○○だね」という言葉です。
でも、その直後・・・



Dが、カナブンの気持ちを自分の苦手な「人間の精神」になぞらえて推測して、私を慰めてくれたのです。
今でもDは人間の精神を実感として理解するのは苦手で、契約者(さゆ)以外の対象に関しては、それが物であっても動物であっても人間であっても「契約者(さゆ)にとって利益の有無・害の有無」という合理的な判断のみで見ています。
でも、人間の精神は持たなくても、Dは精霊の精神の中の、精霊の感情の1つである「好き」という感情(詳細は過去記事「特別」参照)を私に向けてくれていて、その精霊の「好き」は私にとって、人間の「好き」に勝るとも劣らない素敵なものだなあと思うのでした。
本当にありがとうね、D・・・

御閲覧ありがとうございました!!m(*_ _*)m!!