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ボッティチェリ展

上野の東京都美術館で開催されている「ボッティチェリ展」「ボッティチェリ展」(←クリックで公式ホームページが別窓表示されます)に行ってきました!!∩(*´▽`*)∩!!
この展覧会は日伊(日本とイタリア)国交樹立150周年記念の行事の1つでして、他にも「レオナルド・ダ・ヴィンチ展」(クリックで公式ホームページが別窓表示されます)もその記念行事の1つに含まれるようです。

今回の展覧会では、ボッティチェリの師匠であるフィリッポ・リッピと、ボッティチェリの弟子でありライバルでもあったフィリッピーノ・リッピの作品も多数来ており、ボッティチェリの作品を当時の他の画家と比較して楽しめるような作りになっていました。


上野の東京都美術館で開催されているのです。この建物です。

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おおっ、大きなポスターが貼られてますね~。

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なんか建物の背が一部低いなあ?って思われたお客様、大丈夫でございます!!

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なぜなら、東京都美術館は地下にも階があるんですよ☆

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ボッティチェリの作品で現存しているのは約100点なのだそうですが、今回はその中の20点以上を展示、フィリッポやフィリッピーノなどの他画家の作品も含めると合計70点以上の展示ということでした。

美術展は第一章から第四章までの4つのテーマに沿って展示されていたのですが、その展示されていた順番にそって各章ごとに見どころ作品を紹介させて頂いてから、今回のテーマにそってボッティチェリとその師フィリッポそして弟子フィリッピーノとの作品を比較した感想を述べさせて頂く、という構成でレポート記事を書きたいと思います。m(*_ _*)m

すごく長くなってしまった上に、タルパとは全く関係無い内容なので、追記に収納致します。美術展にご興味の無いお客様がスクロールするのは大変だろうと思いますので・・・(´▽`;A(汗)

見てやってもいいよ、とおっしゃるお客様は、下にございます「続きを読む」↓をクリックしてやってくださいませ。記事が開きます。
お手数お掛けして大変申し訳ございません・・・m(*_ _*)m



み、見て下さるのですか!?ありがとうございます!!本当にありがとうございます!!m(*_ _*)m!!!!!


   第一章 ボッティチェリの時代のフィレンツェ (←この見出しは展覧会の見出しそのままですm(*_ _*)m)


このスペースで最も注目すべき作品は、『ラーマ家の東方三博士の礼拝』です。

東方三博士とは、イエスが産まれたときに会いに行って、それぞれ黄金・乳香・没薬をささげて拝んだとされる、新約聖書に登場する三人の人物です。
この絵「ラーマ家の東方三博士の礼拝」はそのシーンを描いた作品で、ガスパーレ・ディ・ザノービ・デル・ラーマという人物がボッティチェリに依頼した絵です。
この絵にコジモ・デ・メディチをはじめとしたメディチ家の人物を何人も描いてあるのは、そのようなフィレンツェにおける重要人物を描いた絵をラーマ家に飾ることで、ラーマ家の格を上げるというか箔を付ける目的で描かれたのではないかと考えられています。メディチ家の庇護を受けていたボッティチェリにとってはメディチ家の人々は馴染みが深いので、わりと本人っぽく描写できたのではないでしょうか?

『ラーマ家の東方三博士の礼拝』

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 1: 聖母マリア
イエスを抱いており、絵の中心にいるのでわかりやすいです。マリアの後ろで頬に手をついているのは夫のヨセフです。

 2: コジモ・デ・メディチ(コジモ・イル・ヴェッキオ)
聖母子に向かってひざまずいています。
ルネサンス美術における超絶重要人物です。経済的・政治的手腕を発揮してフィレンツェを繁栄させ、フィレンツェ共和国の税金を最大で65%も負担し、ポケットマネーでフィレンツェ共和国のために立派な公共施設をいくつも作り、数多くの芸術家達を保護しパトロンとなって育てルネサンス美術を生み出し繁栄させた張本人、頭脳明晰な天才です。一般大衆のために積極的に寄付をし、仕事を依頼した画家に対しても生活に困っているのではないか心配してあげたりと、面倒見も良く親切で誠実な性格でした。先見の明もあり「私はこの都市フィレンツェがいかに移り気かということをよく知っている。およそ50年以内にはメディチ家は追放されるだろう。しかし私がフィレンツェに作った建築はそのまま残るだろう」という言葉を晩年に残して亡くなり、実際にコジモ亡き後30年後にはメディチ家は追放されています。彼のフィレンツェに対する功績は現在に至っても称えられており、ラテン語で「国の父」を意味する「pater patriae(パーテル・パトリアエ)」という称号で呼ばれています。これは教皇に対する称号と同じものです。

 3: ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ
コジモの長男です。マリアの真下あたりで跪いています。ロレンツォ・デ・メディチの息子のピエロとは別人です。

 4: フィリッポ・ディ・コジモ・デ・メディチ
コジモの次男です。画家のフィリッポ・リッピとは別人です。

 5と6: ロテンツォ・デ・メディチとジュリアーノ・デ・メディチ
コジモの孫でピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチの子達で、この二人のどちらかが長男ロレンツォ・デ・メディチ(ロレンツォ・イル・マニーフィコ)で、もう片方が次男ジュリアーノ・デ・メディチです。
私は全身が描かれている人物のほうが長男のロレンツォじゃないかなと思っています。ボッティチェリと左右対称の位置で描かれているからです。二人はとても仲が良く、ふざけたりイタズラを仕掛け合うような間柄だったのです。

 7: ガスパーレ・ディ・ザノービ・デル・ラーマ
フィレンツェで栄えた両替商組合の仲買人で、この絵をボッティチェリに描くように依頼した人物です。こちらを向いています。

 8: ボッティチェリ
この絵を描いた画家です。こちらを向いて超ドヤ顔をしています。

 9: ・・・誰?
この人物については何も説明されていないのですが、この絵の中で「絵の依頼者ラーマ」、「絵を描いたボッティチェリ」以外で唯一こちらを向いている人物で、しかもラーマと左右対称になる位置で描かれているので、ボッティチェリが意味を持たせて描いた人物だと思われます。

この章における他の見どころ作品は以下です。

『杯』
よく見ると「LAV・R・MED」という文字が描かれています。そのことからロレンツォの所有品だったことが窺えます。
この「LAV・R・MED」というのは「メディチ家の王ロレンツォ」をラテン語表記にして、更に省略したものです。「LAV」とはイタリア語名の「ロレンツォ=Lorenzo」をラテン語表記に変えると「ラウレンティウス=Laurentius」となるので、それを省略して「LAV」(古来ラテン語でUとVは同じもので、IとJも同じで「INRI」の最後のJ(ユダヤ)がIに変わったのと同じ)、次の「R」とはラテン語で王という意味の「REX」(学名というものはラテン語で作られるので、あの恐竜のティラノサウルス・レックスのrexもラテン語の王が由来なんですよ)、最後の「MED」はメディチ「Medici」という、そういう文字列の省略なのです。

『ロレンツォ・デ・メディチ(ロレンツォ・イル・マニーフィコ)の胸像』
パッツィ家の陰謀(詳細は過去記事「ボッティチェリとルネサンス フィレンツェの富と美」参照)の直後に作られたとも言われています。そう言われるのも納得な、伏し目がちで眉間にしわを寄せた表情です。ロレンツォが頭に被っている帽子はMazzocchio(マッツォッキオ)と呼ばれるもので、様々なデザインがありましたが、ルネサンス時代のフィレンツェで特に愛好されていました。

『「パッツィ家の陰謀」のメダル、ジローラモ・サヴォナローラのメダル』
パッツィ家の陰謀を描いたメダルは以前の美術展(詳細は過去記事「ボッティチェリとルネサンス フィレンツェの富と美」参照)でも展示されていました。

『竜と戦う大天使ミカエル』
すごくよく見るテーマの絵です。鎧を着ている・剣を持っている・悪魔を攻撃している・ドラゴン(竜)を攻撃していたり踏みつけていたりする・・・それらのうち、どれか一つでも条件を満たしている好戦的な天使がいたら、それは大天使ミカエルです。間違いありません。(美術品における天使の見わけかたの詳細は過去記事「ボッティチェリとルネサンス フィレンツェの富と美」参照)

『ガレアッツォ・マリア・スフォルツァの肖像』
ミラノ公国のミラノ公である彼がフィレンツェ共和国との同盟を深めるために、フィレンツェに来たときに描かれたと思われる絵です。彼の着ている服の模様はフルール・ドゥ・リスと呼ばれるユリの模様です。フィレンツェのユリと呼ばれる模様に似ていますがこちらのほうは王家であることを示すときに使われたり、三位一体を示すときに使われたり、聖母マリアの加護を表すときに使ったりします。一般的にフルール・ドゥ・リスとフランス語で呼ばれているように、フランス風の模様で、フランス王家が好んで使いました。ガレアッツォの奥さんがイタリアとフランスの国境をまたぐサヴォイア家(フランス名ですね)出身なので、ガレアッツォはフランスに詳しかったと思われます。という、当時の歴史を思わせる絵です。


   第二章 フィリッポ・リッピ、ボッティチェリの師


この章では、ボッティチェリの師匠だったフィリッポ・リッピ(1406年 - 1469年)の絵が展示されています。

フィリッポは1421年にフィレンツェのカルメル会修道院の修道士になって宗教画を描きました。マザッチョ、ドナテッロ、ルカ・デッラ・ロッビア等の、前世代の芸術家達から影響を受けた画風でした。特に貝殻状の背景の模様はドナテッロの影響です。
家庭用の祈念画や聖母子像などの小さく細かい作品を手掛けるのが得意でしたが、その一方でプラートという地域のサント・ステファ―ノ聖堂を中心とした初期ルネサンスの制作活動に勤しみ、後の時代にルネサンス美術が花開く足がかりとなりました。
流行に敏感で、当時イタリアで注目されたばかりのフランドル画家の画風などをいち早く取り入れました。また、奇抜な構図で描くのが好きでした。修道士にしては信仰心に乏しく、1456年にプラートという地域のサンタ・マルゲリータ修道院の修道女ルクレツィア・ブーティを連れ去り、子供のフィリッピーノ・リッピが産まれました。1460年にボッティチェリがフィリッポの工房に入って仕事を始めます。その頃のボッティチェリはフィリッポの影響を色濃く受けた作品を描いています。

この章の見どころは、以下の2点だと思います。

『聖母の死の告知』
聖母マリアが死を迎えるとき、天使が死を告げにやってきたという珍しいテーマの絵です。聖母マリアに向かって天使がひざまずいて頭を下げたまま、金色に光る蝋燭を差し出して、彼女を天国に連れて行こうとしている様子を描いた絵です。この絵は各家庭などの祭壇のすそにかかげるためのプレデッラという絵で、横に三つ違うテーマの絵が繋がっており、その真ん中に描かれている絵です。

『玉座の聖母子と二天使、聖ユリアヌス、聖フランチェスコ』
聖母の腕の形がテキトーで、あり得ない形をしています。こういった聖母子の構図を描き慣れていたフィリッポにしてはおかしい描き方だということで、自分の工房の弟子に描かせたのだろうと言われています。それにしても、この人体の歪み・・・何やら見慣れた雰囲気が・・・まさかボッt・・・あっ何でもないです!!(´▽`;A(汗)


   第三章 サンドロ・ボッティチェリ、人そして芸術


この章では、ボッティチェリがフィリッポの工房で働き始めて弟子となってから、独立して自分の工房を開くようになり、その後やがて人気が衰えていくまでの絵を順番に並べて展示してあります。

フィリッポの工房に入ったばかりのフィリッポっぽい画風、そして自分の画風を確立してからの絵、メディチ家の庇護を受けて豪華な絵を描いていた頃の絵、そしてメディチ家が追放された後にサヴォナローラが台頭することで芸術が攻撃され暗く地味な絵を描くようになるまで、時系列に沿って展示されています。

この章に展示されている絵のほとんど全てが見どころなのですが、特に興味深かったものは以下です。

『聖母子(書物の聖母)』

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これは、今回の美術展の看板となっている絵です。高価な画材を使って贅沢に作られた絵で、金箔をふんだんに使い、聖母マリアの青い衣はラピスラズリの粉で作った絵の具で描かれています。当時ラピスラズリは金と同じくらいの価値がある高価なものでした。

 1: マリア
ひかえめで伏し目がちな表情をしています。その静かな表情は、イエスへの深い愛といつくしみを表しているとも受け取れるし、イエスの受難への悲しみやあわれみを表しているようにも見えます。日本の能面もそうですが、あえてハッキリとした感情表現を顔の表情に表さず、見かたによって慈愛とも悲しみともどんな表情にも受け取れるような描き方をするのは、ルネサンス独特の方法です。

 2: イエス
マリアを振り返って見上げているイエスの左腕には受難を表現する茨の冠がかけられており、左手には同じく受難を表現する三本の釘を持っています。これはイエスがゴルゴタの丘で十字架に打ち付けられたときの右手首、左手首、 そして両足をまとめた足首に一本ずつ打たれた釘と、頭に乗せられた茨の冠です。

 3: 聖書
旧約聖書の三大予言書の一つ、イザヤ書の部分が開かれています。この絵が「書物の聖母」と呼ばれる所以です。

 4: サクランボ、イチジク、プラム
三種類の果物が描かれています。サクランボはイエスの血を、イチジクはイエスの復活を、プラムは聖母の甘美さを象徴しています。


『聖母子と4人の天使(バラの聖母)』
この絵は、四角ではなく丸の中に描かれています。こういった形の絵はトンドと呼びます。

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1がイエスで、2がマリア、その周囲を4人の天使が取り囲んでいます。


『美しきシモネッタの肖像(左)』 と 『女性の肖像(美しきシモネッタ)(右)』
ボッティチェリが、同じ美女シモネッタを描いた絵ですが、雰囲気が全然違います。

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美しきシモネッタの肖像(左)
華やかな衣に、豊かな金髪がおろされています。これは日本に唯一所蔵されているボッティチェリの作品で、丸紅株式会社さんの所有です。

女性の肖像(美しきシモネッタ)(右)
きっちり結われた茶色の髪が、乱れることなくまとめられており、しっかりとした人物であるような印象を受けます。当時既婚の女性は自宅外で髪をおろすことを許されていなかったため、こちらの女性は既婚であることが窺えます。


『アペレスの誹謗(ラ・カルンニア)』
古代ギリシャの画家アペレスが描いたとされる、現存(実在?)しない伝説の絵を、文章による記述を頼りに絵に描いたもので、誹謗中傷される人の悲惨さを寓話的に表現した絵です。
この絵の制作年代は1494~96年ですが、1494年といえばフランス軍がフィレンツェ共和国に侵攻し、それに対する対処を誤ったためにメディチ家が市民の怒りを買い、誹謗中傷を受けて、やがてフィレンツェを追放されることになった頃です。メディチ当主から大切にされメディチ家の庇護を受けて活動していたボッティチェリがこの作品を描くにあたっては、色々と思い入れがあったと思います。

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1: 憎悪
帽子を被った貧しい身なりの男の姿で描かれており、「誹謗」の手を引っ張って「不正」の前に導いている。

2: 欺瞞と嫉妬
着飾った若い女の姿で描かれており、二人で「誹謗」を飾り付けている。

3: 誹謗
見た目が良く、人を惹きつけるような美しい女性の姿で描かれている。片手に火のついた松明を持ち、もう片手には「無実」の髪をつかんでひきずりながら、「不正」の前に連れて行こうとしている。

4: 無実
両手を合わせて祈るポーズをした、下着しか身に着けていない男性の姿で描かれている。

5: 無知と猜疑
「不正」に何やら耳打ちし、そそのかそうとしている。

6: 不正
冠を被って玉座に座っている男性の姿で描かれている。長い耳で「無知」と「猜疑」の声を聞いている。

7: 真実
裸で天を指差している。

8: 後悔
杖をついた老人の姿で描かれている。足が遅いので登場人物達の後からやってきて、真実を振り返って見つめている。


『オリーブ園の祈り』
この絵は、新約聖書のルカによる福音書の中の話「オリーブ園の祈り」、つまり「ゲツセマネの祈り」を絵にしたものです。遠近法を無視して、遠くにいるはずのキリストを大きく描くことでそれが重要人物であることを表現するという方法は、ルネサンス時代にしては古いやりかたで、むしろ中世によく使われていた方法でした。

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1: イエスの弟子3人
イエスから眠るなと言われていたが爆睡。

2: 天使
イエスに受難(十字架での死)を表現する杯を差し出している。

3: イエス
神からの命令には喜んで従いたいと思うが、出来れば十字架で死にたくない、受難(杯=十字架での死)を受けたくない、と神に祈りを捧げている気の毒なシーン。

この章での、その他の見どころは以下です。

『バラ園の聖母』
ボッティチェリがフィリッポの工房で弟子として働いていたことによる、フィリッポからの影響を大きく受けているフィリッポ風の絵です。

『パリスの審判』
有名なギリシャ神話を絵にしたもの。
「パリスの審判」という神話は、ギリシャ神話における全知全能の主神ゼウスの妻ヘーラー・知恵の女神アテーナー・愛と美の女神アプロディーテー(ローマ神話におけるユーノー・ミネルウァ・ウェヌス)という三美神のうちで、誰が最も美しいかをトロイア王の王子パリス(アレクサンドロス)が判定することになって・・・という話。
あらすじはこうです。あるとき結婚式が開かれ神々が皆呼ばれたのですが、不和の女神エリスだけは招かれませんでした。そこで怒ったエリスは宴席に乗り込み、「これは最も美しい女神に与えられるものだ!!」と叫んで黄金の林檎を投げ入れました。この林檎をヘーラーとアテーナーとアプロディーテーが奪い合おうとしたので、そこでゼウス(←トラブルメーカーなので余計なこと言わなきゃ良かったのに・・・)が、「誰が一番美しいかは、パリスとかいう男に決めさせよう」と提案しました。・・・何故!?全然関係無いのに突然指名されたパリスもビックリですよね!?(゜◇゜;)!?
意味不明ですが全知全能の神ゼウスがそう決めたので、女神達はパリスに決めてもらうことにしました。女神達はそれぞれ「自分を選べば贈り物をやろう」とパリスにもちかけ、ヘーラーは「君主の座」、アテーナーは「戦いにおける勝利」を与えるとパリスに言いましたが、「最も美しい女を与える」と交渉したアプロディーテーが勝ちました。結局ワイロで決着がついたのです。
この話についてフランスの神学者は、「ヘーラーは『主権』、アテーナーは『戦闘』、アプロディーテーは『生産』を表し、パリス王子は国のために「生産」性を最も重視したのである」と解釈しているようですが、古代ギリシャの話だからそんな真面目な理由じゃないと思う。パリスは単に綺麗な女が欲しかっただけなんじゃなかろうか。
そして最も美しい女神を決めるっていう話なのに、アプロディーテーはパリスに「最も美しい女を与える」ってもちかけるなんて、それって自分達三人より美しい女神がいるとアッサリ認めているのでは・・・

『温和なミネルウァ(女神パラス)』
これはボッティチェリが描いた下絵を使って、フランスで織られたタペストリーです。ミネルウァとはローマ神話の女神で、ギリシャ神話の女神アテーナーに該当します。このタペストリーでのミネルウァは鎧や武器を脱いで木にかけたまま、彼女が人間に与えたというオリーブの傍にいるという、温和なモチーフで描かれています。製織をつかさどる女神でもあるので、織物であるタペストリーに織るテーマとしては良く合っていると思います。


   第四章 フィリッピーノ・リッピ、ボッティチェリの弟子からライバルへ


この章では、ボッティチェリの弟子であったフィリッピーノの作品が展示されています。フィリッピーノがボッティチェリの工房で働いていた頃の面影を残す作品や、ボッティチェリの画風から脱却して自分の画風を確立してからの作品が、時系列に沿って展示されています。

私は今までフィリッピーノの絵をまじまじと見る機会は無かったんですが、ボッティチェリよりも複雑だしリアルな描写で、一般に広く受け入れられそうな美しい絵でした。背景に古典的な建築物を描くのは父親のフィリッポと似てますね。レオナルド・ダ・ヴィンチの遠近法や正確な建築表現も取り入れるなど、熱心で誠実な仕事っぷりがうかがえました。人物の顔なども自然でリアルで、私はボッティチェリよりずっと自分好みな画風だと感じました。

時代の流れ的には豪華絢爛なメディチ家が追放され、清貧を重んじ芸術作品をドンドン燃やしてしまったサヴォナローラ(詳細は過去記事「ボッティチェリとルネサンス フィレンツェの富と美」参照)が台頭すると、ボッティチェリの絵は輝きを失います。そのうちやる気まで無くなったのか、依頼を受けた絵の仕事を工房の弟子に丸投げするなどしてますます画家としての評判を失い、最後は借金まみれで亡くなったと聞きます。

一方でフィリッピーノは、サヴォナローラ台頭という画家としては不遇な時代にも関わらず、画力を上げる努力と新しい画風の追及に労力を押しまず、周囲からの賞賛を受けたのでした。その評価は絵だけにとどまらず、そのひたむきで誠実な性格が賞賛され、彼が亡くなったときは彼を知る者全てがその死を惜しみ悼んだと記録されています。

葉っぱ一枚一枚にまで至るような緻密で細かい描写や、レオナルドから学んだ正しい遠近法、現実的な描写、それは師匠であるボッティチェリには無いフィリッピーノ独自の画風です。

全体的に優しく、優美で、女性的で、この後の時代のバロックにも通じるような魅力のある絵を描くフィリッピーノでしたが、最後のスペースに展示されていた「洗礼者ヨハネ」と「マグダラのマリア」は、ガリガリにやせ衰えて今にも死にそうな二人の絵が描かれていました。これはサヴォナローラの教えを尊ぶ人の祭壇に描かれた絵なのだそうです。誠実なフィリッピーノが注文主のリクエストに忠実に応えて描いた結果こうなったと言われています。
しかし、ボッティチェリ同様メディチ家から大切にされていたフィリッピーノが、メディチ家を攻撃し芸術品を燃やして失わせたサヴォナローラ側に対して、心の中で抱いていた憤りや苦しみがにじみ出たのではないか・・・・と思えるような痛々しい絵でした。サヴォナローラ側がフィリッピーノ達同様にメディチ家に庇護されていたにも関わらずメディチ家を攻撃した上に、それまでキリスト教に貢献してきた画家達までもを迫害して気に入らない絵を燃やすなどしたことを、誠実なフィリッピーノは裏切りだと思っていたかもしれません。

この章で、というかこの展覧会で一番面白かった作品が、『聖母子と聖ステファヌス、洗礼者ヨハネ』です。

『聖母子と聖ステファヌス、洗礼者ヨハネ』

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聖母子の両脇に、十字架を持った洗礼者ヨハネと、旗を持った聖ステファヌスがいるという絵なのですが・・・

なんと、向かって左側にいる聖ステファヌスの頭の上に、石が一つ、ポコッと乗せられているのです・・・!!

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すごい悟ったような顔をしているので、ちょっとクスっときてしまいました。

これは、聖ステファヌスが殉教するときに石打ちの刑で処されたため、彼のアトリビュート(←人物特定のヒント。これを持っていたら誰である、という感じで、その人によって決まっている物のこと)が石だからなのですが、頭の上に乗せなくても・・・!!いやいや可愛かったです☆(*´▽`*)

この聖ステファヌスが持っている旗がミラノ公国の旗だったので、この絵の注文主がミラノ人だったのかもしれません。


中のレストランで休憩して、外に出る頃にはもう薄暗くなっていました。

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窓が色とりどりです。

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お月様だ~。

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この建物がある方側から出るとすぐJRの上野駅です。

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今回の展覧会では、フィリッポとボッティチェリとフィリッピーノの比較がしやすいような構成になっていて、ルネッサンスにおけるボティチェリという画家を、師匠と弟子と比べて見ることができるようになっていました。

「ボッティチェリはイタリアではそこまで好まれない癖のある画家だけど、浮世絵とか漫画とかそういうデフォルメが好きな日本人からはすごく好まれてる画家」ってイタリア人は思ってるみたいですが・・・

今回の展示を見て思ったのですが、やっぱりボッティチェリはルネサンスの画家の中では変わってるなあって思いました。この時代は、中世の古い画風からルネサンスに進化することで、よりリアルに描こうという方向に時代が流れていました。でもボッティチェリはその流れに逆らうかのように、むしろリアルから遠ざかって、自分が美しいと思う形に人体をデフォルメして描いています。漫画の絵みたいにです。

この時代のイタリアの画家にとって、「新しいやりかた」を生み出せないというのは致命的なことでした。どんどん新しい画風を開発したりどんどん画力を上げていかなくては、画家として生き残れなかったのです。特に芸術の最先端であるフィレンツェは常に流行を発信していなくてはなりませんでした。「古臭い画風」では人々に飽きられてしまうからです。そこで、この「デフォルメ」という独特の描き方が、ボッティチェリの開発した「新しいやりかた」だった・・・と考えられます。

でも、その逆もあり得るかなとも思います。ボッティチェリは当時流行の「新しいやり方」である「リアル描写」が苦手だったために、個性を出して長所を伸ばそうとデフォルメのほうに力を入れたとも考えられます。師匠のフィリッポが流行に敏感だったように、弟子のフィリッピーノも流行に敏感で、どんどん新しいやりかたを開発したりマネしたり覚えたりして、それで生き残った節がありますが、ボッティチェリはそういうのが苦手だったんじゃないかなとも思えますね・・・

そして、今回の展示でも、やはり洗礼者ヨハネの絵が多かったです。フィレンツェの守護聖人だからです。

昔ダヴィンチ・コードとかいうツッコミ所満載なアメリカのフィクション作品が流行っていたときに、「画家が絵画に隠した意図を説明します」みたいな本もいっぱい出ていて、一時期「レオナルド・ダ・ヴィンチはイエスよりヨハネを重要視している、ヨハネのほうがイエスより高位だと考えていた」という意見が流行していたみたいなんですが、私はそれは間違いだと考えます。単にレオナルドがフィレンツェ共和国の人間で、フィレンツェで仕事をしていてフィレンツェ人からの依頼も多く受けたので、必然的に守護聖人のヨハネを多く描くことになったに過ぎないってだけだと思います。

フィレンツェを繁栄に導いたフィオリーノ金貨にも単体でヨハネを刻印しちゃうほどフィレンツェはヨハネをフィレンツェの象徴みたいに考えており(詳細は過去記事「ボッティチェリとルネサンス フィレンツェの富と美」参照)、とにかくフィレンツェ人は絵でも彫刻でもヨハネをモチーフにしたがりましたから、当然レオナルドはその依頼にこたえて作品を作っていたはずです。

もちろん、レオナルド自身もヨハネに思い入れがあったと思います。フィレンツェ共和国はルネサンス美術の産まれた国であり、腕の良い画家が競い合う場所だったので、そこで産まれて絵を学んで有名になったレオナルドは、フィレンツェの画家という誇りがあったと思います。ですから、そのフィレンツェを象徴するヨハネにも当然思い入れがあったと思います。でもそこに宗教的な意味(ヨハネのほうがイエスより高位とか)まで想像するのは乱暴だと思います。

特に問題視されたアトリビュートの無い作品「岩窟の聖母」(聖母子+ヨハネ+天使)についても、「イエスがヨハネを拝んでいる、これはレオナルドがヨハネをイエスより高位に考えていた証拠だ」とかいう意見が流行していたみたいですが、あの拝むポーズも洗礼を受けているポーズに過ぎないと思うんです。他作品でイエスが洗礼を受けながら拝んでいるポーズの絵は沢山描かれているわけですし。なのに何故レオナルドの絵だけ批判の対象になったかと言うと、アトリビュートが無かったからだと思います。

しかし、そのアトリビュートを極限まで廃した「リアル」で「現実主義」な描き方こそ、レオナルドがやってみた「新しいやりかた」だったんだと思います。前述しましたように、今回の展覧会でもわかりますが、「新しいやりかた」を作れず時代の流れに乗れなかったボッティチェリが衰退し、新しい画風をどんどん開発したフィリッピーノが売れていったように、名を上げるためには時代の流れに従って「新しいやりかた」をどんどん出していかなきゃいけなかったわけで、流行の最先端であったフィレンツェでは常に新しい画風が試されていました。ですからレオナルドもフィレンツェの画家の一人として、常に「新しいやりかた」を開発していて、このときは「アトリビュートを廃する」という、今まで誰もやらなかった画期的な試みに挑戦したという、それだけだったと思います。

・・・とか、馬鹿な頭で色々思ってみたり・・・(´▽`;A(汗) アセアセ☆
ルネサンス美術や当時のフィレンツェについて勉強になる、とても良い美術展でした。もう一回くらい見に行きたいなあ。(*´▽`*) ♡

御閲覧ありがとうございました!!m(*_ _*)m!!

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